Vol.15

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1. 思想の森
2.国つ神計画研究所
3.使命を果たすための精密栄養学
4.KINEMA 2400
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/2026年8月4日発行/
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■ 1. 思想の森

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儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。

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長年に及んだ日本探究の旅。神話や古代史、さらに語られない者たちの足跡から霊性など、これまで形にならないものを探ってきました。その土壌に今、次の重要な萌芽が生まれ始めており、新たな旅へと移りつつあります。

それが、儒学の一派・陽明学です。
明代の王陽明に始まった系譜ですが、陽明学という呼称は日本特有であり、中国では王学などと呼ばれます。激動の生涯を送った王陽明は、当時、体制哲学として賛美されていた朱子学と真っ向から対峙し、己の生き様において新たな境地を開拓しました。

儒学の始まりが、孔子の言葉をのちに門人が何世代も繋いだ末に文書化されたように、王陽明の生き様は、門人たちによってのちに文書化され、やがて海を越えた日本に宿ります。

王陽明が没した一五二九年は、日本で言えば、戦国時代の頂点争いが激化する前夜。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が生まれる直前です。
やがて関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、征夷大将軍に就任して一六〇三年に江戸幕府を開き、新時代が始まりました。

この時、すでに高齢だった家康は、自らの死期が近いことを理解し、徳川家の繁栄が未来永劫に続くことを願い、また、統治が未来に及ぶように思案を続けます。そこで家康は、これまでにない体制哲学を採用し、幕藩体制を敷くことを考え、ある人物に話を持ちかけます。

それが、当代屈指の学者として知られた儒者・藤原惺窩です。ですが、その時四十代に入っていた藤原惺窩は、徳川家康を良き君とは認めていなかったこともあり、そのオファーを辞退。
代わりに、自らの門人で最も勢いがあり、優れた知性を持ち、新時代に相応しい人物を紹介することで決着。こうして藤原惺窩が選んだのが、一人の若者でした。

その名は、林羅山。
数え年で二十三歳だった林羅山は、藤原惺窩の仲介で、一六〇五年に将軍・徳川家康と謁見。物怖じせず、堂々と新時代に相応しいビジョンを語り、その姿を見込んで徳川家康は重用を即断します。こうして林羅山は、わずか二十代前半で新時代の体制哲学を構築、支える主翼へと大抜擢されたのです。今の日本では、考えられません。

林羅山が熱心に励んだ学派。それが、南宋の朱熹が打ち立てた朱子学でした。この朱子学も日本固有の呼称であり、中国では北宋の程顥と程頤の兄弟と合わせて程朱学と呼ばれます。
朱子学は宋代の統治原理であり、王陽明が生きた明代にまで絶大な影響を及ぼす学派となり、すでに中国皇朝側では、統治に最も適した体制哲学として認められていました。

それこそが、戦国時代という多元的な世界の覇権争いを経て、頂点に立った徳川家康が、目をつけた理由です。そこで若くして朱子学を領有する林羅山を抜擢し、自由に動かすことで、のちに私たちが江戸時代と呼ぶ二六五年の歳月が始まったのです。

林羅山によって消化された朱子学は、のちに林家朱子学として代々林家に世襲されていきます。その発端となったのが、一六三〇年に彼が三代将軍・家光から上野忍岡に土地を拝領した際、開かれた私塾でした。
二年後には、尾張藩主・徳川義直の出資で孔子廟の先聖殿を建立。この時点では、林家の私的な塾と廟でしかなく、林羅山晩年の一六五七年三月二日〜四日には、蔵書もろとも明暦の大火で焼失。林羅山は、全てが焼亡したショックで発病し、わずか数日後の七日に没します。この私塾が、十八世紀が終わる頃、幕府直轄の官学機関へ改められ、「昌平坂学問所」となります。

一六九〇年、五代将軍・綱吉が神田湯島にこの遺産を移築し、先聖殿を大成殿と改称。これが、現在も御茶ノ水に残る湯島聖堂です。
翌年、孫の林鳳岡が大学頭に任じられ、以後、この職は林家の世襲となります。同時に綱吉は、儒者に僧侶の真似事をやめさせており、ここで儒者の身分的地位が一気に引き上げられました。

つまり、林羅山が興した学派は、一世紀も経たずして、あっという間に浸透し、初代将軍・家康以来、代々徳川将軍家の幕藩体制を支える原理として、重宝されていったのです。

しかし、ここに江戸時代の面白さが詰まっています。なぜなら、幕府も藩も、学問の自由を認めていたからです。もちろん、幕藩の要職につく家柄の子息は、朱子学を学ぶ慣習は徐々にできていた。一方で、それ以外の人々には、朱子学を強要する何事もなかったのです。
もちろん、当時の儒学と言えば朱子学。ゆえに、大半の人々が朱子学を学ぶことは基礎教養でした。だが、強制力はなかった。この余白に、次々と日本人儒者の熱が入っていき、新たな学派が勃興する生命力となります。

見逃せないのは、これが江戸時代の文化黄金期を生んだことです。つまり、文化勃興の源流には、必ず思想勃興がある。それが、個人的な見立てです。
例え、林羅山が体制哲学に組み込んだ朱子学とはいっても、江戸初期には余白が存分にあり、中国皇朝のような完成された統治力はない。その余白に立ち現れた潮流は、朱子学への反動的立場を説く古学派として台頭しました。

筆頭格は、儒者で兵学者であり、のちの吉田松陰にまで連なる山鹿流兵学と古学派を打ち立てた山鹿素行。古義学を提唱した伊藤仁斎。古文辞学を提唱した荻生徂徠の三名です。
彼らは朱子学を批判し、同時に古学派の他派を批判しながら急速に成長。余白を持っていた思想潮流が、朱子学への反動という余地から空隙を生み出し、文化を続々と誕生させます。

この結実が、元禄文化(一六八八〜一七〇四年)です。井原西鶴の文学、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃などが花開いた場所は、江戸から離れた京や大坂の上方であり、しかも町人によって生み出されました。

朱子学という統治原理に適した体制哲学が、確かに幕藩体制の基礎を形成しながらも、同時に豊かな余白と反抗精神を生み出し、非武士階級が意気揚々と台頭。朱子学を批判する強烈な古学派の思想の洗礼を受けて、西の町人たちは文化で体制に抵抗し始めたのです。
この潮流が、どんな熱気に帯びていたのか。それは武士の身分に生まれながら、郷里の北陸から京の町に移住した際、町人の熱気に感激した若き近松門左衛門が、刀を捨てて家を飛び出し、筆を握って歌舞伎・浄瑠璃の世界に身を投じたこと逸話だけで十分です。刀から筆へ。これが、新時代の象徴でした。

一体、この時代には何があったのでしょうか。
それが、私たちが失った大事なものでした。

それを私は、原体験と呼びます。言葉にならない感激が、強烈な原体験となり、己の生涯を大きく動かす。幕府を開いた徳川家康も、朱子学に惚れた林羅山も、朱子学に反抗した古学派の儒者も、近松門左衛門も、彼らは同時代に、それぞれ感激という原体験を持っていました。
その原体験が、次々と新たな道を切り開き、時に激しく対立し、どんどん余白を生成していった。この時代、やがて琳派と呼ばれる尾形光琳も登場し、さらに伊藤若冲へ繋がれる文化が生まれた。

こうして、激しい熱狂の渦に包み込まれた江戸時代の都。
ですが、その熱狂の渦から、わずかに距離を取った場所で、もう一つの見逃せない潮流がすでに誕生していました。この中心ではない、絶妙な距離から生まれたある学派は、のちに江戸時代それ自体を刷新し、やがて幕藩体制を崩壊する原動力となったのです。

その潮流の名が、陽明学。
そして日本陽明学の開祖・中江藤樹。
江戸でもない、上方でもない、絶妙な距離がある滋賀県高島に生まれた中江藤樹が、文字通り、その後の日本を変革していくことになったのです。

近江聖人として、今も崇められる中江藤樹。
陽明学を巡る私の旅も、ここから始まります。

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■ 2. 国つ神計画研究所

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統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。

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出雲に鎮座する大社の主祭神を、私たちはオオクニヌシ(大国主神)と呼びます。ですが、この神に本当の名はありません。

『古事記』は、オオナムチ(大穴牟遅神)、アシハラシコヲ(葦原色許男神)、ヤチホコ(八千矛神)、ウツシクニタマ(宇都志国玉神)、そしてオオクニヌシを挙げ、わざわざ「合わせて五つの名あり」と、断り書きを置いています。

『日本書紀』の一書はさらに、オオモノヌシ(大物主神)やオオクニタマ(大国玉神)を並べています。ところが出雲の伝承を編纂した『出雲国風土記』では、奇妙なことが起きています。

オオクニヌシという名が、一度も現れないのです。この神は終始、アメノシタツクラシシオオカミ(所造天下大神)、オオナモチ(大穴持命)と呼ばれ、有名な因幡の白兎も、根の国の試練も語られません。

さらに、播磨へ移れば、『播磨国風土記』の主役はイワノオオカミ(伊和大神)であり、その神はオオナムチ(大汝命)となっています。

一体、どれが本当の名なのか?
この問いこそが、そもそもおかしいのです。

近代以降、この問いに答えようとした者たちは、例外なく、一柱の神が各地で異名を得たと説明してきました。神話を歴史に直結させ、出雲の勢力が広がるにつれ、一人の人格に別名が積み重なったと、主体的に論じたのです。「異名」「別称」「同一神」という語が、その名残です。

ですが、実態は逆です。名が増えたのではなく、名は初めから無数に在り、それが一柱へ束ねられていく過程にこそ、オオクニヌシという神格が生成された足跡があります。その生成に決定的に関わった二柱。留まる神と、去る神です。

出雲の原初的な神は、アマテラスの弟として配備されるスサノヲです。ところが『出雲国風土記』のスサノヲが登場する場面には、有名なヤマタノオロチ退治は一行も書かれておらず、飯石郡の須佐郷に、ごく短く現れるだけです。

そこでスサノヲは、この国は小さい国だが良い国処である、ゆえに我が御名は木や石には着けまい。そう詔して、自らの御魂をこの地に鎮め置き、大須佐田・小須佐田を定めたとあります。私は、この一節が、日本の信仰の原型だと考えています。

木にも石にも名を着けない。着けるのは、場所である。神が自ら、名は場所に生成するものだと宣言している。しかもその直後に、御魂を置き、田を定めたと記されている。つまり、スサノヲなる神、いや、全ての神々は実体などない。これが、古代の姿です。

名と、魂と、耕される土地。それを結んでいるのは、土地を生きる人々の行為です。須佐という地名は、こうして生まれたのです。神の名が土地の名となり、土地の名が神の名となる。両者に先後はありません。なぜなら、これらを生成しているのは、場所における人々の生きた行為だからです。

つまり、名は与えるものではなく、自ずから生成されるもの。だからこそスサノヲは、名を与える側の神でもあったのです。『古事記』において、根の国の試練を越えたオオナムチに、オオクニヌシの名を与えたのは、まさにスサノヲでした。オオクニヌシ(国を統べるもの)なる名は、出雲の土着の神の口から発せられた。この重みが、神話の起源を照射しています。

次に、去る神です。

オオナムチが、その名を得て出立した先で、出雲の岬に、ガガイモの舟に乗り、鵝の皮を着た小さな神が、海の彼方から寄ってくる説話があります。ところが、誰一人その名を知らない。

そこでタニグクというヒキガエルは、クエビコならば知っているだろうと言います。クエビコとは、山田の曽富騰、田に立つカカシのこと。つまり、場所の神のことです。『古事記』は、この神を「足は行かねども、尽く天の下の事を知れる神なり」と記します。歩けない者が、天下のすべてを知っている。そしてクエビコは、これはカムムスヒの御子スクナヒコナであると、即座に名を告げました。

神話の内容はさておき、重要なことは、神が、神の名を知らなかったことです。知っていたのは、一つの田に立ち続け、どこへも行かない者だった。名を知っていたのは、場所そのものだったことを示唆しています。つまり、クエビコなる場所神の元へ、このスクナヒコナは幾度も来訪している。

スクナヒコナは、どこの場所にも属していません。属していないから、誰も名を呼べない。のちに、折口信夫が「まれびと」と呼んだ神の原型が、ここにあります。

二神は共に国造りを行いますが、やがてスクナヒコナは粟の茎に登り、弾かれて常世の国へ渡ったとだけ記されます。来訪神は、場所に留まってはならないのです。留まれば、それは動かぬ場所神になってしまう。去るからこそ、また来ることができる。知恵をもたらすことができる。往って還るという作用・働きそのものが、この神の本体だったのです。

つまり、場所に宿った神と、往って還る神、移動を続ける神がいる。その多元的な世界こそ、かつて先人が生きた世界そのものだったのです。

すると問題は、残された側です。『日本書紀』が、その直後を描いています。一人になったオオナムチが、この国を治めるのは誰かと嘆いていると、今度は海を照らして寄り来るものがあり、こう名乗ります。

吾は汝の幸魂奇魂である、と。神は自らの魂を、名乗られるまで分からなかった。そしてその魂は、三諸山(今日の三輪山)に住まわせよと場所を求め、場所を得た瞬間、オオモノヌシという別の名になりました。大神神社の主祭神です。

土地に名を着けた神から名を授かり、海から来た神と組み、その神に去られ、最後は自らを割って大和の山に自分を置いた。この過程の果てに、場所を超えて国を統べる神格が立ち上がっています。つまり、オオクニヌシとは、生まれつきの一柱ではなく、留まる神と去る神の間に生成された多元的な様態が、一元として生成される緊張の動きそのものにある。神話は、歴史をなぞっているのではない。

では、なぜ名は、多元的でなければならなかったのか。
それは、祈りという行為に、主語がないからです。もっと言えば、主体も主観も自我もない。

誰が祈っているのかを問うても答えは出ず、祈られているものが何であるかを問うても答えは出ない。そもそも、先人はそのような主体と客体が分離した世界を生きてはいない。ただ、場所において生きている。それは日常の行為の連鎖と継承です。主体などない。あるとすれば、その場所であり、村であり、家族であるという具合でしょう。

祈りは、場所における人や自然の間に立ち上がり、それを包み込む関係そのものであって、どちらの所有物でもない。関係である以上、それは必ず場所に属します。伊和の谷の祈りと、三輪の山の祈りと、須佐の田の祈りは、決して同じものにならない。なぜなら、水も風も食も異なり、畏怖の質が異なるからです。質が異なれば立ち現れる様態が異なり、様態が異なれば、音が異なる。これが、風土です。

名は、そうやって生成されました。つまり、風土とは、かつての神の名なのです。だから、名は場所の数だけ在る。八百万とは、この事態を指す言葉です。そしてどの名も、本当です。なぜなら、場所が異なれば、関係が異なるから。

ところが一八七一年、近代社格制度の整備の中で、杵築大社という地名の社号が捨てられ、天皇の皇祖神に位置付けられたアマテラスに譲った、出雲という名を冠した出雲大社という国名の社号へ改められました。場所の名が消え、領域の名に置き換えられた。木や石には着けまい、この土地に着けるのだと言ったあの宣言から、ちょうど反対の方向へ、私たちは歩いてきたことになります。

ですが、消えたのは私たちの側の視方であって、神ではありません。いまも各地の社に、国つ神は坐しています。伊和には伊和の名で、三輪には三輪の名で、須佐には須佐の名で。そして海の彼方からは、いまも季節ごとに何かが訪れ、また還っていく。名がこれだけ在るということは、場所がこれだけ在るということです。

二十一世紀後半にかけて、私たちが取り戻すべきものは、正しい名ではなく、名を必要としないほどに、場所へ還ることのほうなのかも知れません。

多元的世界へ、ようこそ。

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■ 3. 使命を果たすための精密栄養学

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日本や世界の現状を憂い、少しでも未来を変えたいと思う現代人にとって、本当に必要なのは最低限の健康知識です。
どれだけ志が高くても、不調になると心身共に疲弊し、道半ばで諦めてしまうもの。
そこで本コーナーでは、使命を全うするために、最低限の健康知識を最新の精密栄養学の視点で提起していきます。

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大暑を過ぎ、立秋を目前にしたこの時期は、一年で最も気温の高い季節の芯にあたります。暦の上では秋が近づいていても、体感としての夏は、むしろこれからが本番です。

東洋医学では、この時期の不調を「暑湿」と呼びました。暑邪と湿邪が結びつき、消化を司る脾胃に、負担が重くのしかかるという見立てです。古人が経験から掬い上げた言葉ですが、現代の生理学に置き換えてみると、驚くほど筋が通っています。

まず、暑さのなかで体が最優先するのは、体温を下げること。血液は皮膚の側へ多く送られ、その分、消化管に回る血流は相対的に細くなります。こうして食欲が落ち、食後に重さが残る。これは意志の弱さではなく、体が涼をとるために、消化を後回しにしている状態です。

そこへ脱水が重なります。現代では、夏の水分補給や塩の摂取は推奨されていますが、実は汗で失われるのは水だけではありません。いくら水分補給しても、夏バテに抗えない人々が続出している原因は、ここにあります。

中心となるのは、ナトリウムと塩化物。さらに、カリウムやマグネシウムも出ていくため、総合的なミネラル補給を優先することが、夏バテ回避の知恵となります。実際、私もこの猛暑の最中、適度な水分摂取と、良質なマグネシウム摂取を組み合わせることで、灼熱の太陽の下を動き回っても、バテる気配はありません。

そして体液が薄く、少なくなれば、消化液の分泌も鈍ります。屋外で働く方や発汗量の多い男性ほど、この喪失は大きくなります。

次に厄介なのが、冷たい飲食物と冷房です。よく「内臓が冷える」と言われますが、氷入りの一杯で、深部体温が下がるわけではありません。実際に起きているのは、冷たい飲みものが胃にとどまる時間がやや延びること。そして、炎天下と冷房の効いた室内を往復するたびに、自律神経が体温調節の切り替えを強いられることです。

つまり、「冷え」という言葉が指しているのは、この繰り返しによる見えない疲労だと考えると、対処の輪郭がはっきりします。

夏の食卓そのものにも、落とし穴があります。そうめん、冷やし中華、アイスコーヒー。夏の名物ですが、喉を通りやすいものを選び続けると、一日の食事が糖質に偏ります。ところが、糖質をエネルギーへ変える工程には、ビタミンB1が補酵素として欠かせません。ゆえに、糖質が増えるほどB1の必要量は増えるのに、それを供給するおかずのほうが減っていく。これが、いわゆる夏バテの栄養学的な骨格となっているのです。

B1は豚肉、うなぎ、大豆、玄米に多く含まれ、玉ねぎやにんにく、ねぎに含まれるアリシンはB1と結びつき、体内で利用しやすい形に変わります。薬味を添えるという習慣は、味の工夫であると同時に、吸収の工夫という先人の知恵だったのです。

実は、夏に腸の調子が揺らぐ理由は、腸内細菌の豊かさを、キープしにくい食生活に偏ることが一因ともなります。冷たい麺と甘い飲料に寄れば、食物繊維も発酵食品も減り、暑さで睡眠が浅くな理、腸に届く材料そのものが痩せていく。

そのため、一日に一杯の温かい汁物を置くこと。味噌汁は、水分と塩分と発酵を同時に運ぶ夏の万能食でもあり、納豆、ぬか漬け、海藻、オクラなどと合わせて食べることが、効果的です。そして、食べる順番が大事です。冷たいものは食前ではなく、食事の合間に少量ずつ。これだけで、消化にかかる負担はずいぶん変わります。

私は夏の時期ほど、氷の入った飲み物を飲まないようにしており、食事には生姜をいつも以上に足して、むしろ身体を温める調整を行い、冷房下では長袖のメリノウールを着用し、深部体温を下げないようにしています。

暑さへの順応には、二週間ほどの時間がかかります。汗をかける体になるまでの途中では、まだ夏の設計に追いついていません。しかも、汗に含まれる塩分の濃度、暑さへの強さ、腸内細菌の構成には、はっきりとした個人差があります。同じ室温で平気な人と、そうでない人がいる。だからこそ、万人向けの正解を探すより、自分の一週間を観察するほうが早いのです。

立秋を過ぎても、暑さの芯はもうしばらく残ります。この一月をどう渡るかが、秋の立ち上がりを変える術なのです。

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■ 4. KINEMA 2400

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江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。

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輸入するだけでなく、自分たちで作れる時が来たのではないか。
一九六六年の三島由紀夫『憂国』の成功が生んだATGの構想は、翌一九六七年、思わぬ形で現実になります。

発端は、日活で活躍していた今村昌平が、予算配分や配役などの注文をつけられ、前衛的な企画が通らないことから大手に見切りをつけ、一九六六年三月に、自らが代表を務める独立プロを設立。そこで一本の企画を、ATGに持ち込んだことから始まります。

アイデアは『人間蒸発』。失踪した男の行方を、その婚約者とともに日本中を歩いて追う。ただし追跡には俳優の露口茂が同行し、その取材過程そのものを映画にする。記録なのか、虚構なのか、途中から誰にも分からなくなる。

こんな企画、どこの大手映画会社も通しません。
ですが、ATGだけが通しました。今村は、独立プロを立ち上げて以降、毎度家を抵当に入れて映画製作費を捻出し、製作費を回収して、抵当権を解除する三年程度の期間を製作サイクルとしていた人物です。大柄で大食いでしたが、映画を作るためなら、食わずとも構わないという態度で、文字通り、全てを映画にかけた男でした。

大柄な男のギラついた飢えた目と、強烈な熱気に惚れ込んだATGは、ここで一つの仕組みを提案します。ATGが五百万円、今村プロダクションが五百万円。合わせて一千万円で作る方式です。つまり、個人や独立プロでも、作りたい映画を作ってもらう仕組みを、折半する形で考え出したのです。しかも、配給はATGが受け持つ。

当時、劇映画は低予算のものでも三千万円が常識でした。そんな中、一千万円で映画が撮れるかどうか、しかも前衛的で実験的な映画で回収できるか否かは、誰にも分からない賭けだったのです。だが、世の中やってみなければ、何もわからない。ATGには、その精神があった。

こうして「一千万円映画」という言葉が誕生。のちに、ATG方式と呼ばれたこの仕組みは、三つの条項でできていました。

一、製作費一千万円のうち、半分の五百万円をATGが出資する。
二、ATGは企画段階で検討し、製作に対しては一切干渉しない。
三、ATGの上映館で、一ヶ月を原則に公開する。

この二番目が、決定的でした。普通、金を出す者は口を出す。それが産業の常識です。配役は誰にしろ、脚本が良くないなど。まして半分も出しているなら、当然のように介入する権利があると考えるのが世の常です。ところがATGは、企画を通したあとは何も言わない。撮影に来ない。編集に注文をつけない。試写で首を傾げない。大当たりしても、オオコケしても、何も言わない。

作り手が作りたいものを、そのまま作らせる。その表現を発表する場所は、自ら責任を持って引き受ける。これは、映画史において前例のないことでした。

なぜ、こんなことができたのかを考えることは、今の私たちにも無意味ではないはずです。それは、ATGを作った人々が、そもそも儲けるために集まった者たちではなかったからです。前回まで見てきたとおり、川喜多かしこの信念に共鳴した者たちの集まりであり、元々は上映作品を批評家が選ぶ組織でした。

本物の感性で、日本の若者に芸術映画を届け、やがて作って欲しい。金儲けを脇に置いた心ある大人たちの最初の一点が、製作に乗り出したときにも、そのまま貫かれたのです。今となっては、奇跡としか言いようがない。

そして、この仕組みが、既存の映画界に鬱屈していた人々を解放します。

当時、日本映画は斜陽に入っていました。テレビが普及し、観客が減り、スタジオシステムが軋みはじめていた。松竹を飛び出した大島渚、吉田喜重、篠田正浩といった若き才能は、撮る場所を失い、映画評論の世界で食い扶持を繋いでいました。

行き場を失った若者と、行き場を失った才能ある作家。その両者が新宿で交差したとき、得体の知れない化学反応が起きたのです。ATGが差し出したのは、潤沢な資金ではありません。少ない金と引き換えの、完全な自由でした。ですが、激しい時代の混乱に揉まれて生き、表現に燃える者たちが求めていたのは、潤沢な予算で作られる黒澤明のような映画ではなく、低予算でも心から表現し、それを観る者に届けることのできる可能性でした。そこに、ATGがあった。

こうして、新宿の小さな劇場から噴出が始まります。

一九六八年、大島渚『絞死刑』。死刑を執行されながら、死ななかった在日朝鮮人の青年を通して、国家の暴力を問い詰めた作品で、カンヌで上映され、海外での大島ブームに火をつけました。これが、ATG方式による劇映画の第一作です。この後、大島渚が世界的な存在になったのは、誰もが知る通り。同じ年、岡本喜八『肉弾』、羽仁進『初恋・地獄篇』が上映。

一九六九年には、松本俊夫の伝説的な『薔薇の葬列』が誕生。ギリシャ悲劇の骨組みを新宿のゲイバーへ移し、あの伝説的なピーターを、素人時代に主役に抜擢し、劇中に撮影クルーが映り込み、俳優が素に戻って役を語り出す表現を敢行。同じ年、篠田正浩『心中天網島』、そして大島渚『新宿泥棒日記』が上映されます。

一九七〇年に入ると、吉田喜重『エロス+虐殺』が誕生。大正のアナキスト大杉栄と、一九六九年の若者たちの時間が、白い光のなかで溶け合う強烈な体験を届けます。極めつけは、一九七四年の寺山修司『田園に死す』と、黒木和雄『竜馬暗殺』でした。

制約が厳しいからこそ、作品はどんどん先鋭化していき、制作手法も実験的になっていきました。表現者たちは、金がないなら、アイデアで解決するしかない。その一点が、あの時代の異様な密度を生んだのです。おそらく当人たちでさえ、何が起きているかわからないほど、混沌と熱気に満ちていた。あの時代でなければ、絶対に生まれない表現だった。時代は、激動の学生運動期に入っていたからです。そして、敗北した。

さらにATGは、公開作品ごとに『アートシアター』という雑誌を発行。完全なシナリオと評論を収め、上映館でのみ販売する画期的な方法を生み出します。つまり、ATGは作り手だけではなく、受け手にも、創ることの楽しさを説き続けたのです。見るだけで満足することは、消費です。ですが、ATGは、見た後に創るという循環構造を世に提起した。

ATGのアートシアター新宿文化は「観るだけでは終わらない場所」でした。観客は受け手から、読み、考え、論じる者になったのです。

事実、松本俊夫と吉田喜重は東大卒、大島渚は京大卒と、今で言うエリートであり、一九六〇年代初頭から、映画評論の世界で名を挙げていた先鋭的な論者でもありました。つまり、自ら読み、考え、論じる。このサイクルを高速に回すことによって、ATGをより先鋭化させていった母体と言えます。その受け皿となった大人たちは、当然、若い彼らの思想にはついていけない。だが、それを何も言わずに見守り、提供する機会だけは大人たちで作る。こうして、若き言語化できないものを、表現として生み出し、届けるまでを貫徹させたのです。

上映と、演劇と、批評と、製作。この四つが、新宿三丁目の一つの建物で同時に動いていた。これが、芸術映画が文化になりえた理由です。

そしてATGは、もう一つのことをしました。新人に、一本目を撮らせたのです。

一九七六年、長谷川和彦『青春の殺人者』は、師匠・今村昌平がプロデューサーにつき、実際の親殺し事件を徹底取材させ、製作決定からクランクインまで一年をかけた作品です。この第一回監督作品が、キネマ旬報ベストテン第一位、監督賞、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞を独占します。

新人のデビュー作が、その年の日本映画の頂点に立った。以後、大森一樹、根岸吉太郎、井筒和幸、森田芳光という、一九八〇年代の日本映画を作った監督たちの一本目が、次々とATGから出ていきました。

ATGは、芸術映画を輸入する会社として生まれ、自ら作る会社になり、最後に、作る人を生む場所になったのです。しかし、文化は小さな場所で生まれ、いつも静かに終わります。

次回は、この熱が引いていった時代と、ATGが遺したものについてです。

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■ JIHAN JINKO WEEKLY MAGAZINE Vol.15【2026年8月4日発行】
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