Vol.17

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1. 思想の森
2.国つ神計画研究所
3.使命を果たすための精密栄養学
4.KINEMA 2400
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/2026年8月18日発行/

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■ 1. 思想の森

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儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。

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他を変えようとするのではなく、まずは自らの心を正す。それが儒学の聖人の到達した境地だと、このコーナーの冒頭で書きました。今回は、その先にある境地を、少しだけ覗き見てみます。

なぜなら、内側だけで完結する人間は、結局、何も変えられないからです。自己完結は、自己満足は招くかもしれませんが、何も変わらないことを、変えることはできない。ここを問うことで、なぜ禅や道教では世界が変えられないのかを、根本から理解する鍵となります。

ここを最も鋭く突いた人物。それが、王陽明(一四七二〜一五二九)でした。

議論の舞台となったのが『大学』です。『大学』という文献は、元は儒学の重要な経典『礼記』の一篇でしたが、宋代に四書の一つへ引き上げられ、東アジア教養の入口へと昇華された歴史があります。その冒頭に、有名な三綱領があります。

大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り。
【大學之道,在明明德,在親民,在止於至善】

明明徳とは、本来備わる徳を曇りなく発現させること。親民は、民に親しむこと。至善は、その到達です。この解義の問題は、二番目に起きました。今も儒学と言う際、この二番目の読みでどっちを取るかによって、大きく思想自体が変わる注目点となります。

宋代は、儒学が爆発的な復古を遂げた時代。その中心的人物だった南宋の朱熹(一一三〇〜一二〇〇)は、北宋の程頤(一〇三三〜一一〇七)の説を継ぎ、こう注しました。「親は当に新に作るべし」。

親しむの「親」は、新たにするの「新」の誤りだ、と言ったのです。つまり、「親民」ではなく「新民」だと読み替え、そこに基づいて朱熹独自の思想を構築しようとしました。

たった一字、漢字を替えただけです。しかし、この一字が世界が裂ける断絶となり、以後の東アジア史に大きな影響を及ぼすことになるのです。ゆえに、朱熹の系統に連なる朱子学、王陽明の系統に連なる陽明学は、思想の土台自体が異なります。以下に、二つを並べてみます。

◯ まず自ら明徳を明らかにし、その後にそれを人に及ぼして、旧染の汚れを去らしめる(朱子学)
◯ 明徳を明らかにすることが、そのまま民を親しむことである(陽明学)

ここを見ると、朱子学が分離していることがわかります。なぜなら朱子学では、「明明徳」が本、「新民」が末として据えられるからです。本末があるということは、先後があるということ、内外があるということです。自らを磨き終えた者が、「次の段階」として、まだ汚れている者を新しくする。この順序が立った瞬間、自分は主体の側に、民は改良される無知な対象の側に振り分けられます。上下が設けられているのです。

朱熹がこの手を使ったのは、ここだけではありません。むしろ、彼の思想が分離を前提にしていたからこそ、ここで「親民」が「新民」へ転移したと言えます。一字を替えることは、儒学にとっては凄まじい意味を持ちます。根本的に教えが良い方向にも、悪い方向にも変わりえるからです。文字通り、世界が一変すると言っても良い。

つまり、朱子学とは順序の哲学です。そして段取りが立つ思想は、法制度と相性が良いため、必ず体制に採用されます。江戸幕府を開いた徳川家康が、朱子学に飛びついたのは当然でした。これほど見事で、完成した統治に相応しい哲学は、他に存在しないからです。そして今も朱子学は、ひっそりと、日本の官僚制度の絶対的哲学として君臨しています。

王陽明が生涯を賭けて壊したのは、まさにこの順序(分離)でした。晩年の一五二七年、弟子たちに口授した『大学問』に、こうあります。

明徳を明らかにするは必ず民を親しむに在り、而して民を親しむは乃ち其の明徳を明らかにする所以なり。

明徳を明らかにする行為は、必ず民に親しむ行為として顕現する。そして民に親しむことが、そのまま自らの明徳を明らかにする、ということ。内が先で外が後なのではない。内が外であり、外が内なのです。つまり、内外不離。

陽明は、これを体と用で語りました。明徳は親民の体であり、親民は明徳の用である。体と用は二つに分離した別々のものではなく、一つの事の裏表に過ぎない。ゆえに彼は、明徳を明らかにすると言いながら、民を親しまないのは仏老の見方であって、真の明徳ではないと喝破したのです。仏教(特に禅宗)と道教が目指す内的完成の到達点を、儒学の側から不十分だと断じたのです。

自らの心の平安を整え、澄み切った境地に至り、そこで満足する。確かに、これは美しい。しかし、鈴木大拙以降、西洋世界で禅が単なるマインドフルネスへと転落したことからも明らかですが、この一点を理解しなければ、単なる自己満足です。

それは高潔であるように見えて、独りよがりでしかない。世界と一つも交わらないまま完成した内面など、真の内面ですらない。これが、陽明学の立場です。ゆえに、陽明学は仏教的な隠遁を許容せず、道教的な無に浸る態度も許しません。

陽明学が陽明学たる所以は、この絶対的不離に尽きます。内なる明明徳と、外なる親民が、常に相互に媒介し合っている。片方だけを取り出した瞬間、両方が死ぬ。これが陽明学であり、本来の儒学だったのです。

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■ 2. 国つ神計画研究所

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統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。

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私が生まれる直前の一九九〇年、ヒトゲノム計画が始まりました。この計画は、人間という生き物に刻み込まれた設計図を、端から端まで読み解く試みで、十三年もの歳月をかけ、解読が完了したと宣言されたのは、二〇〇三年四月のことでした。

つまり、人類が自らの設計図を手にしてから、まだ二十年あまりしか経っていない。

そして、遺伝子解析が開いた扉によって、多くの恩恵を受けたのが人類学でした。二十世紀を通じて爆発的な成果が上がった考古学ですが、土器や遺構は正確な年代測定が極めて困難であり、また様式などから影響を推定できても、確信に満ちた移動史を明らかにする力はありませんでした。

また、考古学は基本的に陸に留まった者の痕跡しか語れず、海を動いた先人の足跡は波にかき消され、遺物も潮に流されて残りません。ですが、二十世紀は考古学、民俗学、さらに人類学が国家主義や民族主義と絡み合いながら、「民族とは何か?」、あるいは「人類とは何か?」という壮大な問いに迫る初端を切り開いてきました。

しかし、研究成果がどれだけ積み上がっても、何かが足りない。なぜなら遺物や遺構は「人間」によって作られる以上、その人間自身の情報がなければ、「あの民族とこの民族は似ている」程度のことしか言えないからです。ヒトゲノム計画の成功がもたらした恩恵は、まさにこの足りないピースを埋める大きな一歩となったのです。

ところが、発掘されたDNA情報の残る古人骨、あるいは民族を検査すればするほど、人類なる存在が、とてつもなく多元的な存在であることが明らかとなってきました。そしてDNAは興味深いことに、本来残らないはずの大移動の記憶を、私たちの身体の内側に抱えており、誰もが固有の記憶を持っています。

祖先がどこを通り、どの海を渡ったのか。文字も遺物も残さなかった時代の移動史が、細胞の中に膨大なデータとして保存されていたのです。やがて遺伝子検査は徐々に民主化されていきますが、決定的だったのがAIの登場です。これにより現在、かつて到底理解できなかった深度で、遺伝子情報を個人が持てるようになりました。

ただし、ルーツに焦点を置くと、ここで多くの人が見落とすことがあります。それは「何を調べたのか」によって、見えてくる時代も、空間の広がりも、まるで別物になるという事実です。まず、遺伝子を用いたルーツ探索には、性質の異なる二つの入口があります。ひとつが常染色体、もうひとつがミトコンドリアDNAとY染色体です。この二つは似て非なるものであり、結果が根本的に異なります。

常染色体とは、細胞核にある二十二対の染色体であり、私たちの体つきや体質を決めている、いわば本体の情報です。父と母から半分ずつ受け継ぎ、世代が交代するたびに、祖父由来と祖母由来の断片が、ランダムに切り貼りされて混ざり合います。そして特定の先祖から受け継ぐ割合は、一世代ごとに五十%、二十五%、十二・五%と、坂道を転げ落ちるように薄まる特性を持っています。

この常染色体を検査した観点から見つめると、自分がどの集団の混ざり物として立っているのか、その配分が浮かび上がります。そのため、父方・母方を問わず、あらゆる系統にまたがって親族を探し当てることもできます。つまり常染色体は、「面」として広がるモザイクだと言えるでしょう。

一方のミトコンドリアDNAとY染色体は、性質がまるで違います。ミトコンドリアDNAは母から子へ、Y染色体は父から息子へ、配偶者のDNAと一切混ざることなく、百パーセントそのまま受け継がれていくものです。数千年から数万年に一度、という低い確率で起きる遺伝子変異だけが、新しい目印として刻まれ、そのまま子孫へ保存されます。

だからこそ、これを辿れば、人類がアフリカを出てユーラシアを横断し、アジアを移動し、最後に海を渡って日本列島へ至った軌跡が見えてくる。こちらは、何世代経とうと情報は薄まらないため、更新世から完新世に及ぶ古代集団の動きを、そのまま抱えていることになります。いわば、こちらは「線」です。一本の、途方もなく長い線なのです。

なかなかイメージが付きにくいでしょうから、十世代前を考えてみましょう。

十世代前と言えば、およそ三百年前の江戸時代中期です。そこまで遡れば、誰もが千二十四人の先祖を抱えることになります。ですが、ミトコンドリアDNAとY染色体で辿れるのは、そのうちのたった二人だけという絶対条件があります。つまり、この過程で無数の祖先が入っているのですが、それらは途絶してしまい、最終的に残った二本のみが継承されます。

母系が、母の母の母……。父系が、父の父の父……です。判明するのは、二本の糸の先にいる人物のみであり、残る千二十二人については、一切の情報を持ちません。これが人の生物学的な歩みです。

常染色体の方は、シャッフルと半減を繰り返すため、およそ五〜七世代前、年数にして百五十〜二百年ほど遡ると、特定の先祖に由来する断片は細かくなりすぎ、完全に消失する状態となります。

つまり、歴史的な事実として間違いなく自分の先祖である人物のDNAを、私たちは分子レベルで見た場合、一片も受け継いでいないことになる。系譜の上では確かに繋がっているのに、身体の内側には何も残っていない。この乖離こそ、遺伝子がルーツを語るときの最大の逆説です。

では、その「二本の糸」とは、具体的に何を指すのか。ここを曖昧にしたまま検査を受けると、結果を読み違えます。

まず、Y染色体です。これは男(父)から男(息子)へのみ渡るため、女(娘)はY染色体そのものを持ちません。ゆえに、女が自らの父系を知ろうとする場合、自分を検査しても何も出てこないため、父、兄弟、父方の伯叔父といった男の親族に協力を仰ぐしかありません。

次に、ミトコンドリアDNAです。こちらは母から子へ渡りますが、男女を問わずに渡ります。女に限らず男も、女(母)のミトコンドリアDNAを確かに受け取っています。ところが、男(息子)はそれを自分の子へ渡すことができません。受精の際、精子側のミトコンドリアは分解され、卵子側のものだけが残るからです。

ここに、不思議な非対称が生まれます。

男は、自分一人で二本の線を辿れる。父系のY染色体と、母系のミトコンドリアDNAの両方を持つからです。ですが、その母系の線は彼の代で途絶える運命にあります。受け取ることはできても、渡すことはできない。私の場合に置き換えると、母は一人っ子で、私たちは三兄弟のため、母から継承したミトコンドリアDNAは、残念ながら、私を含めた兄弟で途絶えます。

一方の女(娘)は、自分の身体からは父系を辿れませんが、母系の線を次の世代へ渡し続けることができます。これが、母系と父系の決定的な違いです。よって「継承」という観点に絞ると、以下のようになります。

◯ 母系: 女→女→女→女→女→女→女→女→女
◯ 父系: 男→男→男→男→男→男→男→男→男

面白いことに、受け取るが渡せない者と、辿れないが渡し続ける者がある。私たちの身体は、この二つの役割を分け持っているのです。

よって、常染色体でルーツを調べると、父方・母方の全ての系統は見えますが、遡れるのは約五〜七世代前で、せいぜい一五〇〜二〇〇年程度です。自身の民族構成比率は大雑把に割り出せ、親戚探しにも使えますが、ルーツという観点でみると、あまりに浅い。米国のように歴史が浅く、移民だらけの国家では、こちらが一般的なサービスとして人気がありますが、歴史の深い日本人を考えると、ほぼ恩恵はありません。

一方、ミトコンドリアDNAとY染色体は、純粋な母系と父系と言え、何世代遡っても情報は百パーセント保存され、突然変異のみが蓄積されていきます。しかも前述の通り、その突然変異は、基本的に数千年から数万年に一度しか起きません。

この特性により、古代から数万年前、そしてアフリカを出立した現生人類が、どのような移動によって日本列島に到着し、私たちに結びつくかという、壮大な移動史がある程度解明できるのです。

もちろん、ミトコンドリアDNAとY染色体を用いたルーツ探索は、まだまだ本格的に始まったばかりであり、解像度が高いとは言えません。理由は、ルーツ探索は遺伝子情報だけではなく、考古学で発掘された人骨サンプルと量、さらにデータの精度が前提となり、それらを総合的に組み合わせて理解するものだからです。

特に日本人の場合、近隣諸国の中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)、ロシア、チベット、中央アジア、トルコ、東南アジアや南アジアなど、広範囲な連携が欠かせず、特に外交問題が多い中国、韓国、北朝鮮、ロシアと共同しなければ、先へ進むことができません。

しかし、誰もがその遺伝子データから、あなたの始祖である母父まで遡れることができる。これを私は、「始祖母」・「始祖父」と呼びますが、ここに二十世紀からこれまで蓄積されてきた、先人による膨大な考古学、人類学の成果が、本当の意味で発動する可能性が開かれるのです。

先週末、私は自身の膨大な遺伝子データを受け取り、地図を手にしました。私にとって重要なミトコンドリアDNAとY染色体も興味深い結果が出たため、それを最新の人類学や考古学のデータ、さらにアジアの古代史、そして私自身が行ってきた古代日本の調査データを組み合わせながら、独自にルーツに迫る新たな旅を画策しています。

もちろん、ミトコンドリアDNAとY染色体だけで、「あなたは何者なのか?」という答えは出ません。なぜなら日本人の場合、誰もが縄文・弥生・古墳の三つの層を遺伝子に刻み込んでいるからです。よって正確な問いは、母父から継承したミトコンドリアDNAとY染色体の起源となる始祖母・始祖父がどこで誕生し、どのような移動でその末裔たちが日本列島に到達したのか、となります。

今後、AIが労働を本格的に代替する時代を迎えると、働く必要のなくなった人間は暇を持て余すようになり、どんどん内省へ向かわざるを得なくなります。その時、「自分は何者なのか?」という問いは、遺伝子検査の民主化と絡み合いながら、必ずルーツの問いへと向かうでしょう。同時に、遺伝子に基いた二十一世紀型の新・民族主義が勃興し、一時的に世界を席巻するでしょう。

その時代を見据えて、真っ先に自分自身のルーツを掘り進めていこうと思いますが、その旅は、最後に人類最初の母を生んだ、アフリカ大陸まで達するのでしょうか。

謎の暗号が大量に並ぶデータが、一つの物語を作り上げる。もう一つの個人的な旅が、いよいよ始まります。おそらく最初の発表は、早くても二〇三〇年代になるでしょう。

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■ 3. 使命を果たすための精密栄養学

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日本や世界の現状を憂い、少しでも未来を変えたいと思う現代人にとって、本当に必要なのは最低限の健康知識です。
どれだけ志が高くても、不調になると心身共に疲弊し、道半ばで諦めてしまうもの。
そこで本コーナーでは、使命を全うするために、最低限の健康知識を最新の精密栄養学の視点で提起していきます。

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台風十五号が過ぎ、暦は処暑へと向かいます。今週末には暑さが和らぐとされる節目を迎えますが、その先には二百十日が控えています。低気圧で崩れやすい方々にとって、一年で最も要注意の時期です。

立春から数えて二百十日目にあたる九月一日は、古くから台風が襲来しやすい日として警戒されてきました。かつては、この時期になると全国各地で風害を防ぐ祈りが捧げられ、五穀豊穣が願われました。今もその風習が残っているもので言えば、富山県の八尾町で行われるおわら風の盆(毎年九月一日〜三日)があります。

稲が花をつける時期に暴風雨が来れば、その年の実りが失われてしまいます。だからこそ先人は、暦にその警戒信号を刻み込んだのです。

前回、天気で崩れやすい体には、血液データに現れる下地があるとお伝えしました。フェリチン、ALP、BUN。この三つは、血管がどれだけの余力を持っているかを映す指標でした。しかし、問題は栄養だけに限りません。同じように整えても、揺れやすさには個人差が残ります。今回は、その差を生んでいる設計図そのものに踏み込みます。

まず、血管がどう動いているかを見ておきましょう。血管の太さは、自律神経だけでなく、内皮細胞が作り出す化学物質によって、秒単位で細やかに調整されているのですが、その主役が、NO(一酸化窒素)です。順序としては、以下のようになります。

◯ はじめに、血管内皮にある酵素NOS3が、アミノ酸のアルギニンからNOを作る。
◯ 次に、生まれたNOが血管の筋肉へと伝わり、「広がれ」という命令を届ける。
◯ 結果、血管が柔らかく拡張し、血流がスムーズになって、血圧が穏やかに下がる。
◯ 最後に、役目を終えたNOは速やかに分解され、また次のNOが作られる。

この繰り返しにより、血管は常にちょうど良い太さに保たれているのです。一方で、「血管を縮めろ」と命じる役目を担うのが、アンジオテンシンIIというホルモンです。つまり、広げる力と縮める力の絶妙なせめぎ合いで、血管は健やかさを保っているのです。

ところが、NOを作る酵素には、BH4という補因子が欠かせません。これが不足すると、NOS3は、NOではなく有害な活性酸素を生み出してしまい、血管は酸化ストレスにさらされてしまいます。いわば、守るはずの仕組みが、傷つける側に回ってしまうのです。

実は、気圧が変わるたびに血管の調律が大きく乱れるのは、こうした分子レベルの背景があります。単なる気合や根性の問題ではない。そして、この血管の癖を決めているのが、精神論ではどうにもできないもの。すなわち、NOS3とACEという二つの遺伝子なのです。

一つ目が、NOS3遺伝子。こちらは、アルギニンからNOを作る酵素の設計図であり、変異があると、NO産生能力が不安定になる傾向があります。例えば、気圧が下がると、体は酸素を確保しようとNO産生を増やします。しかし反応が過剰になると、脳の血管が急に拡張し、周囲の三叉神経を圧迫して、強い痛みを引き起こす。これが、低気圧の日の偏頭痛の、分子レベルでの姿です。

二つ目が、ACE遺伝子です。特に高活性型の方は、血管を縮める働きが強めに出る傾向が知られており、気温差での血圧の変動が大きくなりやすい傾向があります。

ただし、大切なのは、遺伝子の変異は欠陥ではないこと、そして運命論ではないことです。ここで考えられることは、「血管のセンサーが細やかで、環境の変化にいち早く反応する体質」だということです。これが、環境要因如何で良くも悪くも作用する。

考えれば自明ですが、本来、天候の急変をいち早く察知する能力は、人間にとって生き延びるための資質です。それが「不調」として現れるようになったのは、現代の空調や二十四時間の人工照明の中で、この感度が過剰に働きやすくなっているからです。つまり、現代の環境要因にかなりの問題があり、生き延びるための叡智が、生活の質を下げる方向へ転倒してしまう。

言い換えれば、遺伝子を知ることは大変有益ですが、現代人は共通して環境に問題を抱えているため、生活リズム、食生活、環境の基層から整えない限り、遺伝子を理解することは宝の持ち腐れになります。

では、この揺れをどう落ち着かせるか。
次回は、その戦略を見ていきます。

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■ 4. KINEMA 2400

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江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。

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私たちは今、映画会社という言葉を、なんとなく「映画を作る会社」という意味で使っています。ですが、かつてこの言葉は、まったく違う規模のものを指していました。

かつては、作る工場を持ち、運ぶ流通を持ち、売る店まで持っている。原料から店頭まで、一本の線がすべて自社のものでした。あの時代の大手映画会社とは、そういう会社だったのです。つまり、Bean to Barのように、かつての映画は産地直送であり、一貫した生産者と顧客を結ぶ構造を持っていた。

この構造を知らなければ、映画史において重要となる「独立プロ」という言葉の重さが、理解できません。そこで今回は、最も巨大な構造から見ていきます。

戦後の日本映画を仕切っていたのは、松竹、東宝、大映、東映、新東宝、そして日活。この六社です。まず、各社はそれぞれ撮影所を持っていました。

◯ 松竹|大船(神奈川県鎌倉市)・京都(下加茂から一九五二年に太秦へ移転、一九六五年閉鎖)
◯ 東宝|砧(東京都世田谷区、のちの東宝スタジオ)
◯ 大映|東京(東京都調布市多摩川)・京都(太秦)
◯ 東映|東京(東京都練馬区大泉)・京都(太秦)
◯ 新東宝|砧(東京都世田谷区、東宝第二撮影所が母体)
◯ 日活|調布(東京都調布市染地、一九五四年に新設)

実は、当時は監督も俳優も脚本家も撮影技師も、全員が月給取りの社員として会社に雇用・所属していました。この感覚は中々理解し難いでしょうが、今のようにフリーの監督が企画ごとに集められる構造ではなく、どれだけ映画が興行収入を上げても、監督に還元されることはありませんでした。なぜなら、会社員だからです。

簡単に言えば、会社に入り、助監督から始め、十年近く現場を務めて、ようやく監督に昇進して一本目を撮らせてもらう。撮影所とは、映画を作る現場であると同時に、徹底して会社だったのです。

ただ、最大の特徴として、各社は全国の映画館を系列に持っていました。ここが決定的です。何しろ、松竹の映画館では松竹の映画しかかからず、東映の館では東映しかかからないからです。これをブロックブッキングと言います。作品ごとに劇場と交渉するのではなく、上映番組があらかじめ自社で埋まっている。他社が入る余地も、独立した映画製作者が入る余地もない。

逆に言えば、埋まっているということは、埋め続けなければならないということです。

何しろ毎週、番組は替わります。しかも、一九五四年に東映が新作二本立てシステムを始めて以降、各社が追随し、一回の興行に対して、二本の製作が必要になりました。当時映画は二本立てであり、一度料金を払えば、二本の映画を見ることができたのです。かつて、レコードにA面とB面があった感覚です。ちなみに東映は、大量生産を最も得意とした会社です。

つまり撮影所は、途切れることなく作品を生産し続ける義務を自ら抱えてしまった。この体制で「量産された作品群」が、プログラムピクチャーです。

一体、どれくらい作っていたか。一九六〇年、日本映画の製作本数は、何と五百四十七本(史上最高)。単純に割れば、週に十本以上が封切られていた計算になります。もちろん、それほど大量に映画が生産されていたのですから、その分、観客がいました。

事実、一九五八年に映画館の入場者数は、十一億二七四五万人に達しています。当時の日本の人口がおよそ九千二百万人ですから、国民一人あたり年に十二回以上、映画館に通っていたことになります。今では信じられませんが、テレビ時代以前の映画黄金期には、ここまで映画が輝いた時代があったのです。

大量の観客と、大量の映画。するとそれを繋ぐ映画館の数も、当然増大します。結果、一九六〇年に七千四百五十七館でピークを迎えます。今も全国を巡っていると、時折寂れた土地に廃墟となった映画館を目にすることがありますが、これは典型的な昭和映画黄金時代の遺産です。

その遺産で実際に観賞体験がしたい場合、個人的なおすすめは、新潟県上越市にある高田世界館です。ここは何と開業が一九一一年(明治四十四年)。明治から大正期の趣を残す大変貴重な映画館で、今も映画を愛する有志の方々によって、定期上映が行われています。

また、当時、テレビは全国に百五十万台ほどしかありませんでした。映画が「娯楽の王様」と呼ばれたのは、誇張ではなかったのです。

さて、これほど完成された仕組みが、なぜ綻びを見せたのか。これは映画に限らず、あらゆる産業に起きることですが、非常に面白いので重点的に見ていきます。

発端は、一つの協定でした。一九五三年九月十日、松竹、東宝、大映、新東宝、東映の五社が調印した「五社協定」です。きっかけは、戦後は興行中心だった日活が製作再開を決め、撮影所を建てて他社から監督や俳優を引き抜こうとしたことに始まります。それを防ぐために結ばれた、専属監督や俳優に関する協定です。

一方、皮肉なことに、一九五八年九月には当事者の日活も加わって六社協定となり、ここで「貸さない、借りない、引き抜かない」の「三ない主義」が掲げられました。一九六一年に新東宝が経営破綻して再び五社となり、この協定は一九七一年に自然消滅します。

言葉にすれば、業界の紳士協定。ですが、これは働く側から見れば意味がまるで違ってきます。なぜなら、会社を辞めるという選択肢が、映画界から消えることと同義になったからです。今風に言えば、干される、ということです。その起源が、ここにあります。

例えば、監督が松竹を出ても、東宝は雇えない。俳優が大映と揉めれば、行き先がない。作りたいものと会社の方針が食い違ったとき、選択肢は、諦めるか、業界の外に出るかの二つしかなかった。実際、この過程で業界を追放された監督、俳優などは、本当にいます。

ですが、会社は常に事務と現場で温度差を持つもの。事務が五社協定で出口を閉したところで、現場の熱気を抑え込むことはできません。こうして需要と供給が一致していた時代、熱気を帯びた製作者との間に、大きな亀裂が入ります。重要なことは、この亀裂はその時に起きたことではなかったこと。亀裂は、ある延長線に現れたものです。

その発端が、敗戦直後の一九四六年から一九四八年にかけて、東宝で三次にわたって勃発した労働争議です。これは、戦後最大の労働争議でした。第二次争議のさなかには、長谷川一夫、山田五十鈴、原節子、高峰秀子といった時のスターたちが「十人の旗の会」を結成して脱退し、第二撮影所を母体に新東宝が生まれた経緯があります。

第三次争議では、何と撮影所の接収に、警視庁予備隊と米軍まで出動する事態となり、装甲車両が撮影所を囲みました。「来なかったのは軍艦だけ」という言葉が残っています。映画の撮影所に、戦車が来たのです。

なぜ、ここまで映画界が沸騰していたのか。というよりも、なぜ米軍まで出動する事態になっていたのか。ここに、現在からはなかなか見え難い、当時の激しいイデオロギーが潜んでいます。

そこで次回、映画界に沸き起こった激しい弾圧の歴史を見ていきます。

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■ JIHAN JINKO WEEKLY MAGAZINE Vol.17【2026年8月18日発行】
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