Vol.3

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人類史上、最も残酷な転換点を迎えた世界。このメールマガジンでは、激動の時代を乗り越え、多極化する世界で活躍するために必要となる「次の思想」を、三井崇央主筆のレポートを通じてインストールする場所を提供します。
心と体を整え、あなただけの天命を全うするための知恵を、毎週火曜日にお届けします。

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1. 思想の森
2.国つ神計画研究所
3.使命を果たすための精密栄養学
4.KINEMA 2400
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/2026年5月12日発行/

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■ 1. 思想の森

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儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。

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アメリカが正義で、イランが悪。
いや、イランが正義で、アメリカが悪。

改憲が正義で、護憲が悪。
いやいや、護憲が正義で、改憲が悪。

一体、二元論の世界の住人たちは、何をしているのでしょうか?
500年続いた西欧的な帝国の幻想は、第二次世界大戦後に二元論の米国とソ連となり、冷戦終結で一元論のアメリカ帝国に帰結しました。しかし、今や西洋の一元的な帝国主義は完全に終わりました。そんな中、崩れゆく覇権に未だ固執する米国と、自分たちの時代が終わったことを受け入れられない西欧。
彼らの病は、一元論でも二元論でもない、多極主義(Multipolarity)を招き、激しい混乱を始めています。ただ、国内では多極主義について耳にする機会はないため、今回は西洋の終わりと共に浮上する「次の思想」を見ていきます。

現代の文脈に照らすと、多極主義の母胎はソ連崩壊後のロシアにあります。冷戦終結後に一元的なアメリカの帝国主義が地球を覆う中、1990年代後半にロシア首相にもなったエフゲニー・プリマコフが、「プリマコフ・ドクトリン」を提唱したことが起源です。
当時、外相だったプリマコフは、「ロシア、中国、インドが連携し、アメリカ一極の覇権を抑止する多極化世界を作るべきだ」と主張。ユーラシア大陸に地政学的な三角形を形成することで、経済・外交の観点で米国の一極覇権を抑止する試みを提唱し、後のBRICSの基盤となりました。

多極主義の根幹は、非常にシンプルです。特定の国家や民族が生み出した価値観は、あくまでも地域固有の産物であり、その規制を超えて文脈の異なる他地域に適用することは、侵略に他ならないという考え方です。
西洋が「普遍」と主張する民主主義、個人主義、平等、平和、愛、階級闘争などが代表例です。つまり、これらは西欧の一部地域でしか通用しないものであり、世界に拡張してはならないという戒めです。明瞭に言えば、「人類に普遍」はないということです。

2026年のイラン戦争で米国が完全敗北した現在、多極主義の提唱者たちは、西洋によるこれ以上の他地域への干渉は、第三次世界大戦を招くと警鐘を鳴らしています。トランプ大統領に対して、「さっさとイランから手を引き、イスラエルと縁を切って家に帰れ」という主張は、既に米国国内では主流になり始めています。
この流れの中、西洋の論者たちは、かつてリベラルな西洋知識人が最も恐れていた「多極主義」の用語を公然と使うようになり、「西洋は中東やアジアから完全に手を引き、家に帰るべきだ」と語気を強めています。

ただし、この辺りは大陸的な動きに疎い日本人にとっては、少々理解しにくい文脈です。
まず、多極主義の思想において、見逃してはならない最重要人物がいます。それが欧米リベラル層から、「現代で最も危険な思想家」と評されるアレクサンドル・ドゥーギンです。
ドゥーギンの名前は、欧米リベラル界隈で「口にしてはならない名」であり、あたかもハリー・ポッターに登場する、「名前を言ってはならない」ヴォルデモートのようです。
そのため、欧米リベラルの影響下にある日本のマスメディアでは、彼の名前は絶対に登場しません。しかし、現代の多極主義はドゥーギンの思想に支えられています。

前述のロシア元首相プリマコフの多極主義が、経済・外交的な国家インテリジェンスの実務的側面を担ったなら、ドゥーギンの多極主義は文明論的な思想を担いました。

1962年にソ連の軍情報機関の高官の子として生まれた彼の思想ルーツは、1960-1980年代に存在した地下サロンにあります。モスクワにある作家ユーリー・マムレーエフ(1931-2015)のアパートの一室に開かれたサロンは、地下運動の母体で、ユジンスキー・サークルと呼ばれます。彼らの目的は、ソ連の体制に反発する反動分子の組織化でした。

マムレーエフの部屋には、ソ連の無神論や唯物論を嫌った反動的な知識人、詩人、反体制活動家、神秘主義者が集い、ナチスに通じる欧州の神秘主義を軸に、オカルトなど多方面に研究していました。若きドゥーギンは、この危険な洗礼を原体験として受けたのですが、中でも彼らが理論的支柱と崇めていたのが、詩人エフゲニー・ゴロヴィン(1938-2010)です。
サロンの中心人物であり、卓越した思想家のゴロヴィンは、サロン内での議論を通じて、ポストソ連を担う若者に、ある思想を注入します。それが伝統主義です。

日本では馴染みがないでしょうが、「近代という時代そのものを、人類史上最悪の脱線であり、衰退と見る」伝統主義は、西洋の価値観を真っ向から全面否定します。伝統主義はノスタルジーな懐古主義ではなく、天から与えられた「永遠の真理」を「伝統」として読み替えます。
これはソ連が世界初の「科学的無神論」を標榜し、信仰の母胎である教会の破壊、聖職者の追放を組織的に行なったことに対する反動とも言えますが、彼らは近代に制度化された宗教も衰退と捉え、特定の教義に依存しない、本質的で強固な「存在の根源」を「伝統」と考えます。
この伝統主義の開祖として崇拝されるのが、フランスのルネ・ゲノン(1886-1951)です。

ゲノンは在命時から危険人物と見做されていましたが、その理由はフランス人でありながら、近代西欧が考えた「右肩上がりの直線的歴史」を、真っ向から否定したからです。特に批判の矛先になったのが、人類は常に進化してきたと考える英国ダーウィンの進化論(ダーウィニズム)です。
近代西欧の限界を突破するために、東洋思想とイスラム思想に接近したゲノンは、歴史は常にサイクルによって形成されると考えました。私たち日本人にとっては当たり前の考えですが、近代西欧にはこのような考え方はありません。この瞬間、東西の思想の根本的差異が、世界を征服したと自惚れる西欧人に暗い影を落としたのです。

フランスで生まれた伝統主義は、第二次世界大戦期に入ると、隣国で敵対関係にあったイタリアに飛び火します。ここで登場したのが、イタリアの思想家ユリウス・エヴォラ(1898-1974)です。
両者の違いは、東洋思想の洗礼を受けて、瞑想を通じた精神回帰を主張したゲノンと、危険な実践や闘争、極限状態の自己克服が精神覚醒に必要と主張したエヴォラとして表れます。両者は同じ伝統主義ですが、禅と修験道のような違いがあります。
当時、日本も属していた三国同盟の観点から、エヴォラはムッソリーニのファシズム、ヒトラーのナチズムと接触していますが、両イデオロギーとは根本的に相容れない立場でした。

こうして伝統主義を徹底的に研究したユジンスキー・サークルでは、「西洋の近代主義の拡大=悪」と確信するに至ります。そして、サロンで根底の思想を育んだポストソ連の若者たちは、1991年12月のソ連崩壊後に本格的な活動を開始します。
ここでドゥーギンは、ソ連を追放され、ニューヨークとパリで17年もの亡命生活を送った作家エドゥアルド・リモノフと共に、1993年5月に「国家ボリシェヴィキ党(NBP)」を結成。極右と極左を統合した過激な運動をNBPで展開する中、彼は1997年に『地政学の基礎』を発表します。これがソ連崩壊後のロシア軍、政治エリートの聖書となるのですが、今日のユーラシア主義に繋がる一冊です。

反リベラリズム、反米・反グローバリズムを掲げて革命精神を称揚するNBPは、ソ連崩壊後にアイデンティティを喪失したロシア人に息を吹き込みますが、一方で二人の間には致命的な思想の相違がありました。
ロシアをユーラシア帝国として復活させ、近代西洋を終わらせることを目的に据えたドゥーギンと、革命に生き、反体制運動を目的に据え続けたリモノフは、目的が根本的に違ったからです。二人の決裂は1998年頃に顕在化しますが、二十世紀が終わる1999年暮れに、彗星の如く現れた「無名の人物」によって決定的となります。

それが、プーチンです。
1999年8月にエリツィン大統領によって首相に指名されたプーチンは、12月31日の大統領電撃辞任により、一気に大統領代行に上り詰めます。実はこの時までプーチンは、ロシア国内でもほぼ無名の人物でした。2000年1月のダボス会議で、海外の記者がロシア側のパネリストたちに、「プーチンとは何者か?」と問いかけた時、会場が沈黙に包まれたというエピソードは非常に有名です。誰も、プーチンが何者か知らなかったのです。

この動きに呼応して、ドゥーギンはユーラシア帝国復活のアバターとしてプーチンを見ましたが、リモノフにそうした考えはありませんでした。こうして二人は決裂し、リモノフは2020年に亡くなるまで、かつての同志ドゥーギンを「体制の犬」として批判し続けました。

ドゥーギンの多極主義の主眼は、米英が展開するグローバリゼーション(海権国家)に対して、ユーラシア大陸を陸権国家として対抗的に再定義し、その中心にロシアが立つべきだという主張に貫かれています。
注意点は、彼は二十世紀を支配した自由主義、共産主義、ファシズムを、すべて近代西洋が生んだ人類史上最悪の失敗作と切り捨て、それらに代わる「第四の政治理論」として多極主義を提唱したことです。

また彼の多極主義は危険思想ではなく、各文明独自の伝統と価値観に基づいた統治原理です。ただし、一元的な世界観による特権を享受してきた西洋人だけは例外で、彼らにとっては最も危険な思想となります。ドゥーギンの思想は、当時から西洋による普遍的価値の押し付けを息苦しく感じていたイラン、中国、インド、トルコ、欧米の右派勢力の心を掴みます。
今日の「自国第一主義(〜ファースト)」の根底に流れているのは、彼の多極主義です。

1990年代後半から、米国主導の一極主義に対抗したドゥーギンですが、本格的に注目を浴びたのは、2014年のウクライナ紛争です。米国CIAが政権転覆させ、米国の傀儡政権を生み出したウクライナの状況に対して、何度も殺戮を発言したことでモスクワ大学教授職を解雇されたドゥーギンですが、弱体を始めていた米国に対する世界的な嫌悪と不信は、むしろ彼の名声を高める好機となります。
その結果、これ以上のドゥーギンの台頭を阻むために、米国による暗殺計画が進行します。こうして2022年に発生したのが、ドゥーギンを標的にした爆弾テロです。狙われたのはドゥーギンの車でしたが、偶然にも別の車に乗って助かったドゥーギンの代わりに、将来有望な思想家として注目されていた娘のダリアが犠牲になります。

愛娘を殺されたドゥーギンは、娘の死を「西洋との文明戦争の殉教」と位置付け、悲しみを抱えて思想を先鋭させていきます。
今もドゥーギンの名は欧米リベラル界隈と、その影響下にある日本で語られることはありません。しかし、イラン戦争という米国の致命的敗北により、公然とドゥーギンによって昇華された「多極主義」が語られるようになっています。

ドゥーギンが巧妙なのは、西洋人にも多極主義を浸透するために、彼らに馴染みある二十世紀ドイツの法学者カール・シュミットの概念を常に持ち出したり、米国の国際政治家でベストセラー『文明の衝突』の著者サミュエル・ハンティントンを理論的支柱に組み込んでいることです。
これにより、多極主義を米国化、欧州化する道を開いています。事実、この卓越した思想行為により、今日の米国と欧州は多極主義の震源地になっており、既存リベラルも保守も完全に過去のものとなりました。

つまり、多極主義への賛否はさて置き、私たちの誰もが今、「近代」と「西洋」を個々に見直す重要な局面を迎えているのです。なぜなら、多極化世界の波は、もう押し寄せているからです。日本の場合、西洋の影響下に組み込まれた1868年の明治維新以降の歴史を見直し、次の国造りを考えることが絶対条件となります。

元々、「白と黒」で物事を決めつける二元論は、1868年以前の日本にはありませんでした。現在、国際的にはイラン戦争、国内的には憲法改正を巡って二元論に陥っている多くの人々を見ると、第三次世界大戦の勃発が、もはや避け難い水準に達したように思えます。つまり、改憲も護憲も同じ土俵に立っていることに相違はないため、結果は変わらないということです。

二元論の帰結は、必ず惨事に至ります。
世界的に見ても、二元論ではない世界を生きてきた貴重な日本人。今、私たち日本人の世界に対する責任は、「白と黒」ではない道を西洋に提示することにあります。

近代西洋の寵児となった日本。
私たちは、西洋に引導を渡す重大な責任を背負っています。その成否が、これからの世界の未来を決めるでしょう。

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■ 2. 国つ神計画研究所

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統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。

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今週は、古代の織布の中でも、天皇祭祀に関わった伝説の大麻布についてです。

先週、日本にはフジ(藤)、シナノキ(榀・科)、コウゾ(楮)、カジ(穀)、クズ(葛)、アサ(大麻)、カラムシ(苧麻)、バショウ(芭蕉)など、縄文時代から様々な草木が織布に活用されてきたことを書きました。
現在は、大半の衣服が石油由来の合繊繊維を素材としているため、天然の織布に触れる機会はありませんが、「日本人の歴史」として見た場合、99%の歳月で天然素材を活用していました。

自生する草木の皮から糸を紡ぎ、布を織る技術は、8世紀前半に成立した古事記や日本書紀にも記されています。「神代」と呼ばれる神々の時代から、既に織布は活用されていたのですが、中でも神聖視されてきた伝説の布があります。
それが皇位継承者が天皇になる大嘗祭において、最高秘儀の中で身につける「アラタエ」という織布です。

アラタエの歴史は、神話に始まります。それが「天の石屋」という説話です。
これは今日の天皇の皇祖神である姉・アマテラスが、弟・スサノヲの暴虐に耐えられなくなり、天の石屋の戸を開けて中に閉じこもったという話です。
世界が暗く闇に包まれてしまったことから、困った神々が集い、知の神・オモイカネ主導のもとで、アマテラスを石屋から出す作戦を実施します。

ここで様々な施策が行われますが、今回の注目は「白丹寸手(しらにきて)」と「青丹寸手(あおにきて)」です。この表記は古事記側のもので、日本書紀では「白和幣」と「青和幣」となります。
白丹寸手の素材は楮や木綿、青丹寸手は大麻で作られた平たい紐状の布ですが、二つの布を奉献したのは、フトタマという神様です。古事記は「布刀玉命」、日本書紀は「天太玉命」と表記されます。

このフトタマを氏族の祖神として後に崇めたのが、忌部です。
インベ・イムべ・イミベとも言われ、平安時代に「斎部」となった古代氏族は、古事記や日本書紀が成立する時代、既に朝廷内の権力闘争に敗れていたため、歴史的にはあまり目立ちません。
歴史の授業で、大化の改新(645年)を起こした中臣鎌足(後の藤原鎌足)について覚えている人も多いでしょうが、忌部が敗北したのは中臣の権力が強大になったからです。

実は古代朝廷では、天皇に関わる祭祀の実権は、忌部と中臣の二翼で掌握されていました。しかし、中臣の台頭により、本来忌部の職掌であった祭祀も奪われてしまい、忌部は存続自体が危ぶまれていきます。
中臣の当主・中臣鎌足は死期が迫る中、大化の改新を起こした盟友・天智天皇の受諾を受けて、「藤原」に改姓します。鎌足の死後、中臣ー藤原の本格的な台頭に関わったのが藤原不比等です。
藤原不比等から生まれた藤原四兄弟は、やがて政治的実権を司る朝廷、祭祀的実権を司る皇室を掌握し、「藤原の時代」とも呼ばれた平安時代に突入する原動力となります。

この苦境の中、忌部最後の当主と呼ばれる斎部広成が、自らの氏族の正統性を書き綴ったのが、『古語拾遺』(807年)という文献です。
ここではフトタマが忌部の祖神に位置付けられており、この神が率いた神々が四柱記されています(神様は「柱」と数えます)。

◯ アメノヒワシ(天日鷲)
→ 阿波忌部の祖神: 現在の徳島県
◯ タオキホオイ(手置帆負)
→ 讃岐忌部の祖神: 現在の香川県
◯ ヒコサシリ(彦狭知)
→ 紀伊忌部の祖神: 現在の和歌山・三重県
◯ クシアカルタマ(櫛明玉)
→ 出雲忌部の祖神: 現在の島根県出雲

神話には、神が生まれる「神生み」という構造、神が成る「神成り」という構造、神が神々を「率いる」構造があります。忌部の神々は率いる構造であるため、様々な技術者集団が、フトタマのもとで統合されたということです。

先述の古事記・日本書紀の「天の石屋」神話ですが、古語拾遺の記述はより詳細です。オモイカネがフトタマに指令を下すところまでは同じですが、その実態はフトタマがリーダーとなり、複数の技術を有する神々を束ねた一大プロジェクトです。
その中に、青和幣と白和幣の記述があります。古語拾遺によると、青和幣を製作したのは伊勢国のナガシラハ(長白羽)であり、素材は「麻」と書かれています。一方で、阿波忌部の祖神・アメノヒワシにツクイノミ(津咋見)を使わせて、穀木を植えさせて白和幣を製作させており、素材は「木綿」と言及しています。

ちなみに古代の「青」や「白」という色は、今の私たちが想起する「色」とは全く異なるため、注意が必要です。異端の民俗学者・谷川健一は『青と白の幻想』の中で、「古代には、色の呼称は赤、黒、白、青の四つしかなかった。」と記しています。実際、古代の色の理解ほど難しいものはなく、例えば「青」は単純に私たちにとっての青色ではなく、死者を風葬する場所を示す言葉でもありました(青島などはその名残です)。
ゆえに、ここに登場する青和幣や白和幣は、色として私たちが想起する青色や白色ではありません。実際、日本人は「青々しい」という言葉を緑がかった草木に使ったり、緑色を「青信号」と呼ぶなど、今もそうした名残は持っています。

神話は「過去ー現在ー未来」の線形的な時間で構成されないため、最初は取っ付きにくいでしょうが、実はこの時点では「徳島と麻・穀」の関係は示唆されていません。しかし、後半にフトタマの孫であるアメノトミ(天富)という神様が、アメノヒワシの孫を率いて肥沃な土地を求め、最終的に阿波国に穀・麻の種を植えたことが記されています。
その末裔は、8-9世紀の斎部広成の在命時には阿波国に実在したと記されており、大嘗祭の年になると、木綿・麻布などを奉献したと伝えています。そしてアメノヒワシの末裔が作る木綿・麻を素材とする織布は、古語で「アラタエ(阿良多倍)」と呼ばれたと書かれています。興味深いことに、この「末裔」は今も徳島の剣山奥地に実在します。それが、三木家です。

つまり、9世紀初頭に斎部広成が古語拾遺を書いた時、既に「アラタエ」は古い呼称になっていたということです。平安時代以降、表記は「麁布」「荒妙」「麁服」など様々ですが、忌部の衰退に比例して古織布の歴史は混乱し、既に平安時代の時点で謎に包まれていたというのが本音でしょう。
令和に元号が変わる際も大嘗祭は行われましたが、この時も阿波忌部の末裔である三木家当主を軸に、徳島の剣山奥地の集落で大麻栽培から織布(アラタエ)を仕上げ、皇室に奉献する一大プロジェクトが行われました。

ただし、アラタエを美化することも問題です。そもそも大嘗祭自体は常に行われてきたわけではなく、1467年の応仁の乱が始まる直前の1466年を最後に断絶しています。大嘗祭の再興は江戸時代の1687年であり、それ以降は皇位継承ごとに執行されていますが、実は阿波忌部の末裔が徳島からアラタエを奉献する風習は、復活しませんでした。

この風習が復活したのは明治以降であり、大正天皇の即位時に徳島が県を挙げた事業として復活させたことが起源です。今で言うところの地域おこしの一環です。
その後、昭和、平成、令和でも行われましたが、この事情から、ほぼゼロから手探りで始まっています。しかも平成と令和は厄介なことに、第二次世界大戦後に米国側の圧力で大麻の栽培自体が違法(ライセンス制)となり、百年前にはパリの総面積に匹敵した日本の大麻栽培は激減しました。戦後、徳島の大麻栽培は断絶しています。
そのため、平成と令和のアラタエ製作は非常な困難を極めます。特に令和の時には予算を村自体で募らなければならない状況となり、出資を募って資金を調達し、大麻栽培のノウハウを持つ栃木県の栽培者を道具と共に招き、自ら警察を雇って24時間監視のもとで大麻栽培から始まりました。

さらに時代の移り変わりも残酷です。阿波忌部の末裔とは言っても、実家の三木家住宅は国指定重要文化財になっていますが、戦後の地方から都市への若者の流出、過疎化の影響で現・当主も大阪の銀行員でした。その後、三木家に戻って暮らし、アラタエにも関わりましたが、もはや古代は近代によって失われたと見るのが正しいでしょう。

昨年、剣山奥地の小屋平に行って当主に話を伺いましたが、その辺りの話も今後、古織布の歴史と共にお伝えしていきます。

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■ 3. 使命を果たすための精密栄養学

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日本や世界の現状を憂い、この手で未来を変えたいと思う現代人にとって、本当に必要なのは最低限の健康知識です。
どれだけ志が高くても、不調になると心身共に疲弊し、道半ばで諦めてしまうもの。
現代社会は「毒」にまみれており、情報が氾濫したことで「誰かの成功例」を真似し、自分に合わない健康法を続けて不調に陥る方が多発しています。
そこで本コーナーでは、あなたが使命を全うするために、最低限の健康知識を最新の精密栄養学の視点で提起していきます。
少しでも健康を向上し、未来のために使命を果たしましょう!

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今週から『使命を果たすための精密栄養学』のコーナーを設けました。これまで栄養学の知識は、医療従事者や管理栄養士などに閉ざされていましたが、今では誰もが最低限の健康知識を取得しなければ、次の時代を生存できません。

そこで初週となる今回は、基本的な考え方を綴ります。

まず、私たちは人類史上初の「毒」の世界を生きています。大型魚に多く含まれる水銀をはじめ、鉛、カドミウム、ヒ素、アルミニウムなどの重金属は、古い水道管、土壌、日用品を通じて体内に蓄積し、様々な不調の原因となります。

コンビニ弁当を電子レンジで温めたり、ペットボトルに入ったホットドリンクを飲むだけでも、プラスチック製品から溶出するPFAS(有機フッ素化合物)が体内に入り、代謝の乱れや炎症を誘発します。「永遠の化学物質」と呼ばれるPFASは、一度生成されると分解されにくいため、体内に残るリスクが極めて高い物質です。
その他にも、農薬や添加物、大気汚染など多岐に及び、一度体内に入った毒は、現代では排出することが非常に困難となります。

食の質が高かった時代であれば、しっかりと栄養を摂取できていたため、ピンチを脱するための気合や根性、あるいは鍛冶場の馬鹿力が出ましたが、それは今や昔話です。原因不明の不調に悩まされながら、誰もが日々を生きている現在では、他人を思いやる余裕を失い、人間関係は悪化し、社会全体がストレスを抱えた緊張に包まれます。

重要なことですが、実はこうした状況に対して、西洋医学は為す術がありません。元々、戦争負傷者のために生まれた西洋医学は、戦時の怪我に対する処置には優れていても、現代人を悩ませる不調を治す力は持っていません。
しかし、現代医療の大半は西洋医学に依存しています。そのため、不調を抱えて病院に行っても、医師によって病名が付けられて薬が処方されるだけ。これでは治るものも治りません。
いわば、すべての人々が何かしらの不調を抱えて生活しており、限界を迎えているのが現在です。

この状況は、「まだ若いから」と言って他人事にはできません。かつて孔子は、「五十にして天命を知る」という言葉を残しましたが、これは孔子ほどの聖人であっても、自分が生まれてきた使命を自覚し、それを全うするために生きられるようになったのは、50歳を過ぎてからだという経験に基づいた教えです。

三十代半ばの私から見ると、まだ十数年ありますが、問題は50歳になりさえすれば、誰でも使命に生きられるわけではないことです。特に現代人が真の使命に生きる時期を迎えるためには、自分や家族の身を守るためにも、最低限の健康知識は必須だと考えます。それが、このコーナーの意図です。
単に情報を知るだけなら、AIで済みます。そうではなく、ここでは根底にある思想から、読者それぞれが「健康になろう」と思う思考を設計することが目的です。

孔子の言葉は年齢ごとに分かれており、
◯ 十有五にして学に志す
◯ 三十にして立つ
◯ 四十にして迷わず
◯ 五十にして天命を知る
◯ 六十にして耳順う
◯ 七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず
となっています。

これは晩年に孔子が自らの生涯を振り返った時の言葉ですが、今の私で言えば、ちょうど「四十にして迷わず」の時期に向かっています。一般には「不惑」と呼ばれる時期ですが、無事に迎えることができるのでしょうか?

なにしろ不健康な時代を象徴するように、現代の情報社会は人々を不惑に向かわせず、むしろ迷いの底に叩き落とす作用を働かせているからです。つまり、四十で迷いを断ち切り、本当に必要なことを実行する十年を経て、天命を知ることは、現代では容易ではありません。
三十代を情報に左右されてしまい、四十代に不調を患えば、五十に天命を知ったところで、そもそも実行する活力がありません。これを、私は今の時点で問題だと考えています。

周囲を見ていても、若い頃の不摂生などが健康に反映されるのは、40歳からです。社会的キャリアがピークを迎える40歳になって、突然の不調に悩まされる方は本当に多く、日常生活も崩れていきますが、そうなるとやる気が低下し、自らの人生を諦めてしまいます。

私自身、30代で高い志を持って生きていた人が、40歳を前後に次々と諦める姿を見てきました。同じ轍を踏まないと心に決めて生きているものの、人間の生涯は思っているようにはいきません。
だからこそ、今のうちに最低限の健康知識を持って、少しでも健康を向上することに努めるべきです。この小さな積み重ねは、四十代以降の資産となりますが、やってきた人とそうでない人の差は、取り返しがつかない決定的なものとなるでしょう。

要は、あなたは人生を本気で生きたいのか?
問いは、ここに集約されます。

天命を知り、全うする豊かな人生を生き抜くために、共に学んでいきましょう!

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■ 4. KINEMA 2400

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江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。

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1930年代中期から後期と、1950年代前期から中期。
第二次世界大戦を前後に起きた「ふたつの黄金期」は、その後の日本映画史に大きな影響を及ぼすため、理解が欠かせません。

今回、焦点をあてたいのは1950年代です。
先日、小津安二郎『東京物語』(1953)、黒澤明『七人の侍』(1954)、溝口健二『雨月物語』(1953)から観ることをお勧めしましたが、一体、どうしてこの時代の作品が重要なのでしょうか?

単に、伝説的な巨匠の傑作だからではありません。この時代特有の事情が、クリエイターにとって追い風となり、「表現の爆発」に結びついたからです。そしてこうした機会は再び巡ってくると考えられるため、すべてのクリエイターは、その時に備えて準備すべきです。そこで、俯瞰的に時代を見つめることから始めます。

最初の黄金期となった1930年代は、職業軍人の発言力を政治が無視できなくなり、陸軍を中心とする軍部が台頭した時代です。1931年の満州事変を皮切りに、陸軍の満州部隊である関東軍が独断で軍事行動を拡大。国家の意思決定プロセスを無視し、軍が独断で暴走した出来事は、映画関係者に不吉な未来を予感させます。

1932年の五・一五事件、1933年の国連脱退、1936年の二・二六事件と続き、1938年に国家総動員法が制定されると、いよいよ映画は軍部の意向を無視できなくなります。
いわば、1938年から大東亜戦争開戦までの1941年は、極限の中で表現する「最後の時代」を迎えていたのです。
戦時体制のもとで映画は統制に置かれ、軍部の検閲が表現を強く規制します。それから敗戦を迎える1945年まで、映画から表現の自由は奪われましたが、ようやく終わった戦争も、クリエイターにとっては終わらない苦痛の続きでした。

なぜなら、戦時の軍部が戦後はGHQに置き換わっただけだからです。1940年代後半にかけて、GHQ主導で「民主主義映画」の制作が強要され、今度はGHQによる検閲が始まります。1940年代を通じて日本映画は暗黒時代を迎えたため、これと言った作品はありませんが、この歴史はあらゆる表現が検閲によって死ぬことを教えています。

もはや日本映画も終わったと思われた時、戦勝国同士が覇権を巡って代理戦争を開始。こうして1950年6月に米ソの朝鮮戦争が勃発すると、戦後復興を模索する日本にとって予期せぬ追い風となり、潤滑油のように経済復興が加速します。
海を越えた朝鮮動乱で、日本国内の占領軍の目が半島へ向いた途端、映画クリエイターは思わぬチャンスを手にしたのです。ソ連と真っ向勝負するために、GHQの検閲は事実上無効となり、国内経済も急速に回復したことで、映画産業は爆発的発展を遂げます。

朝鮮戦争は1953年7月に停戦に至りますが、この間、日本では1951年9月のサンフランシスコ平和条約を皮切りに、1952年4月にGHQが日本を去り、表向きに日本は独立国の主権を回復していました。この恩恵は、表現を生業とするクリエイターを刺激します。

10年以上も表現の圧制に苦しんだ人々は、水を得た魚のように自由な表現を躍動させます。この結果、今も日本を代表する名作の数々が製作されたのですが、それは腹の底に抱えていた憤怒と、表現の飽くなき欲求が、ようやく交差する臨界点を迎えたからです。
つまり、1930年代的な圧制が強まる時代とは異なり、1950年代は検閲からの全面開放が実現したという決定的な相違があります。

この奇跡的な「権力の空白」は、文字通り日本映画に黄金期をもたらしましたが、僅か数年後には次の圧制の気配が漂い始めます。それが1960年を迎えようとする中、日米安全保障条約の改定を巡る闘争が、全国規模で勃発したことです。

また黄金時代を支えたのは、戦争を直接経験した現役世代であり、表現に対する検閲が如何に問題であるかを肌で知っていた人々です。しかし、1950年代後半に入ると、小さい頃に戦争は体験しているが、戦地で敵と向き合った経験を持たない世代が増加します。
さらに高度経済成長の煽りを受けて、地方から大都市へ人口流入が加速したため、「新たな需要」に応えなければならない局面に直面。既存のクリエイターでは、到底対応できるものではありませんでした。

表現の自由は、言葉で語るほど生やさしいものではない。
そのことを、この三つの作品ほど伝えているものはないのです。

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■ Jihan Jinko Vol.3【2026年5月12日発行】
■ 著者Webサイト:https://jihanjinko.com

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