
Vol.7
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1. 思想の森:
東アジアの炭鉱のカナリアー韓国が体現する近未来
2.国つ神計画研究所:
邪馬台国論争の本当の問題
3.使命を果たすための精密栄養学:
ビタミンDの基礎
4.KINEMA 2400:
山中貞雄が描いた「人情」
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/2026年6月9日発行/
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■ 1. 思想の森
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儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。
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3日ほどソウルを歩いていると、短期間にあらゆる側面で、日本が隣国に抜き去られた事実を随所で感じます。
感覚で言えば、韓国は日本の昭和から一気に令和になったようで、平成が大胆に圧縮されながら、昭和のフレームワークを令和で強制的に上書きしたように見えます。
実際、2022年に1人当たり名目GDPにおいて、韓国は初めて日本を超えており、この数年で国家主導のデジタル化が加速しています。また、1人当たり購買力平価GDPでも、2010年代後半に韓国は日本を逆転しており、その差は年々開いています。これは日本の観光地に出向けば、多くの韓国人旅行者の姿を見ることからも納得できるデータです。
そして国民のパスポート保有率を見ても、日本の18.4%(2025年末時点)に対して、韓国は約60%(2025年3月)と非常に高い特徴があります。これは国内だけで完結できない人生を前提に、多方面にリスク分散も兼ねて、韓国人が未来を模索している姿の反映です。
国家的な仮想的である隣国・北朝鮮の存在があるからですが、同様に仮想的の中国を抱える台湾でも、国民のパスポート保有率は60%を超えています。これらの国に暮らす人々のパスポート保有の選択は、単に海外旅行や海外進出などの問題ではなく、国民が国家の未来と自分自身の未来を重ねていない証拠とも読めます。
日本人のパスポート保有率の低さは、「内向き」だからではなく、安全安心の日本という昭和の幻想に、多くの国民が未だ依存している証拠です。この文脈から、日本人は自らの未来と国家の未来を重ねて考えていると常々感じます。ここに、厄介な思想的問題があります。
「日本の未来」と口にする時、大半の人は政府を軸とする官僚システムの国家・日本を指しています。確かに、このシステムにおける日本の未来は暗雲が立ち込めており、やがて崩壊することは自明です。しかし、それを自らの人生に重ねる道理もなければ、義理もない。日本の未来のために生きることは必要だが、それはイコールで日本の官僚システムを守ることではない。この弁別が日本国民にはできません。
韓国や台湾の国民は、ここを明白に切り分けています。
韓国の場合、1997年に起きたアジア通貨危機により、事実上の国家財政破綻を経験。IMF(国際通貨基金)に緊急金融支援を要請し、破綻はかろうじて回避したものの、1998年から始まったIMFの過酷な緊縮財政要求に対して、国民が自宅の資産を国に寄与する運動が起きました。これは「国難克服・金集め運動」とも呼ばれ、自身が保有する金、指輪などの換金可能なものを政府へ寄付し、何とか国家としての刷新をはかった苦い経験です。
これは1990年代後半の出来事ですから、多くの韓国人現役世代の骨身に、この経験は染み込んでいます。
この財政危機を契機に、韓国は旧システムの守護者であった財閥を一掃し、新たな国家形成として不透明だった構造の刷新に着手。大胆な構造改革とIT産業へのシフト、そして輸出力を高める「攻める国家戦略」を武器に、予定よりも前倒しで2001年8月にIMFからの借入金、総額約195億ドルを全額償還する奇跡的復活を遂げました。
抜本的刷新の渦中、国内トップクラスの為政者だった大宇財閥などが倒産し、生き残ったサムスンや現代グループはグローバル進出を加速します。一方、IMFの指導下で社会の「終身雇用が崩壊」し、大量解雇が一斉に行われたことから、失業率が急上昇。この負の遺産が、今の韓国社会における過酷な受験競争、極端な少子化の遠因となっています。
しかし、ここで韓国の現代史から私たちが学ぶことは、韓国人が国家に未来を委ねる従来の態度をやめて、我に返ったことです。私は、これこそが21世紀に韓国が日本を抜き去った真の力だと見ています。実際、それは社会の透明性として表れており、韓国では大統領であろうが汚職への追求が機能しますが、日本は全く機能しません。つまり、日本で国民が主権を獲得するために本当に必要なことは、法整備ではなく、国家の未来と自身の未来を重ねない個々の決断にあると考えます。
国家財政危機に直面した韓国の国民や企業は、国内市場だけで安定する社会を幻想だと肌で理解し、国内に依存していると国が滅びるという痛烈な教訓を得ます。ここでグローバル意識が芽生えましたが、時代はちょうどソ連崩壊後に米国がグローバリゼーションを加速させた時代。この時代の波に乗った韓国は、ここからグローバル戦略に大きく舵を切ります。
また、国家財政危機で我に返った国民の中には、未来のために一度国を出る決断を行なった者が多く、米国西海岸にコリアタウンを形成して国家衰亡の危機を回避。母国再興の時に向けて準備に励みます。
やがて、コリアタウンで育った移民二世の若者たちが、現在のK-POPやK-ドラマ、K-映画などの韓流コンテンツを作る文化の核として台頭。彼らは、西海岸で米国式のグローバルマーケティングを学び、世界有数のエージェントシステムを取り込み、コンテンツの素材自体を両親の母国・韓国に据えながら、時間をかけて世界を席巻したのです。
一方、旧態依存したシステムを脱した韓国では、一人ひとりが国家の未来に自身の未来を重ねるリスクを肌で理解しているため、個人の豊かな人生が、韓国の未来にどう行使できるかを真摯に考える転換に成功しました。
ソウル市内を散策していると、街並みや雰囲気は二十世紀的な都市ですが、都市の「見えないOS」は二十一世紀型にアップデートされており、デジタル社会一つを取っても、日本は及びません。
今回、韓国のデジタル政策から受けた印象は、国民一人ひとりに合わせて階段を上るように慎重に進めず、国家のリーダー主導で大胆なデジタル改革を進め、そこに国民が適合するという方法を採った姿です。
これは年長者層にとっては大変ですが、慣れれば済むことであり、デジタルネイティブの若者たちは、この影響で家からほとんど出ずに生活を続けることが可能になりました。その結果、都市は空洞化を始めています。
しかし、これこそが未来です。未来とは、かつてSF映画で描かれたような「未来都市」にあるのではなく、日常の中にひっそりと浸透していく世界線のことです。そしてそれは、トップに立つ者の決断によって、切り開かれていきます。
日本の場合、デジタル政策は国民一人ひとり、特に集票の核である高齢者層に合わせることを主眼に据えるため、階段をゆっくり上るように慎重に進めていきます。しかも階段を上るために、手すり、段差の配慮などを最初に行わなければ一歩を踏み出すことができず、そのための会議が何度も行われ、転落した場合の保険、法整備などが先に検討されます。
結果、デジタルテクノロジーの加速度的な進展に完全に取り残されてしまい、世界有数のデジタル後進国となり、国内ではデジタルネイティブが育たず、むしろ日本は若者の方がデジタルテクノロジーへの理解度が低いという惨状を極めています。
日本、韓国、中国は、儒教の圏域として考えなければならない特殊な地域です。儒教ではリーダーの人格が、そのまま国民生活に反映され、個人の豊かさを創造するという考えが根本にあり、先頭に立つ者が日々学び続け、新たな経験や価値観を取り入れて、改革を先導する責務があると考えます。
その意味で、1997年は東アジアのターニングポイントでした。
同年、日本では山一證券が破綻し、1985年に始まったバブル経済が完全終焉。しかし、高度経済成長期に貯め込んだ資産が莫大だった日本は、皮肉にも韓国のような国家財政破綻に直面せず、バブル崩壊後も為政者の既得権益が守られた上、国民が蓄積してきた国家の貯金を切り崩せば体制維持ができるため、悪い未来に舵を切ってきました。
また、機能不全に陥った官僚主義は、2001年の中央省庁再編で政治と結託して生き延びており、現代は官僚主義が政治を上回るレベルで作用しています。
つまり、同じ年に日本は変革のラストチャンスを逃したが、韓国は荒治療に成功した。この答え合わせが、30年経って如実な差として、今、表れているのです。
「古いシステムの解体とIT・グローバル化へのシフト」に成功した韓国と、失敗した日本。
あれから、30年が経とうとしています。
この間、韓国はソフトパワーのコンテンツ戦略で世界を征服し、日本はジャニーズ問題で凋落しました。そしてパスポートを持ち、購買力の高い韓国の若者たちは、続々と日本を訪れて新たな素材を仕入れ、母国へ持ち帰って次々と事業展開を始めています。
その象徴が、スペシャリティコーヒーです。
2023年頃、馴染みのスペシャリティコーヒー専門店に足を運ぶと、若い韓国人旅行者が多くて驚きましたが、話を聞くと、韓国では良いスペシャリティコーヒーが飲めない。だから日本に来るとのこと。
しかし、3年前の話も遠い昔話。
今、世界一カフェの生存競争が激しいソウルでは、次々と新しいカフェが生まれては消え、高速で淘汰しながら肥大化しています。実際、カフェの多さは異常で、激しい競争を生き抜くために、各カフェは徐々にパーソナライズへ移行し始めている予感がします。
この背景には、意外な存在があります。それが中国です。
韓国に忍び寄る中国の静かな気配。
その象徴的な存在が、「覇王茶姫(CHAGEE)」です。
2017年に中国・雲南省で創業したモダンプレミアムティーブランドは、瞬く間に中国本土を席巻し、2026年4月30日には、何とソウル市内に3店舗を同時オープン。若者がショッピングを楽しむ江南、大学生が多くいる新村、近年の再開発計画の主眼である龍山に登場したCHAGEEは、あっという間に流行に敏感な韓国の若者を魅了し、爆発的な人気を獲得しました。
すると、翌5月21-22日に、CHAGEEはソウル市内にさらに2店舗をオープン。韓国上陸から1ヶ月以内に、何と5店舗体制を形成しました。
CHAGEEは、既に中国本土に7,000以上も店舗があり、マレーシア、シンガポール、タイ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、アメリカ、韓国に進出しています。つまり、日本は入っていません。
この理由を日中関係と言うことは容易ですが、そうではなく、現実は日本人1人当たりの購買力が、他のアジア諸国と比べて、魅力的ではないと判断されていると見ることも可能です。
実際、週末にソウル市内のCHAGEEに訪れると、流行りに敏感な日本人旅行者の姿が目立ちます。彼らは今、ソウルに訪れて、中華ブランドのCHAGEEに足を運んでいるのです。CHAGEEは展開速度も現代的ですが、オンライン化を加速させており、客一人ひとりの好みに対応できる豊富なオプションを設定しています。
しかも、わずか一ヶ月の間に旅行者、ショッピング目的の若者、大学生、ビジネスマンのすべての客層が動く地区に出店しています。
周囲には、米国のグローバリゼーションを象徴するスターバックスが無数にありますが、時代遅れ感が凄く、米国の終わりと中国のアジア台頭を反映しているようです。
興味深いことにCHAGEEは、ブランドロゴやデザインを含めて、スターバックスの店舗を居抜きで使える設計を最初に組んでいます。なにより、スターバックスは飽和しており、日本でも単なる自習室となり、ブランド価値はありません。
元々、スターバックスはイタリアのエスプレッソ文化を米国化したコーヒーで世界を席巻したグローバル時代に相応しい感性でしたが、CHAGEEは中国が本場の茶文化を再解釈して提案するため、世界的なコーヒーバブルの値動きに左右されることもなく、巧みにグローバリゼーションの旨味だけを吸い取っています。
今、韓流コンテンツが飽和し、世界的に曲がり角に差し掛かった韓国のソフトパワーを象徴するように、ひっそりと中国のソフトパワーがソウルに進出し始めています。この韓国の姿は、あらゆる観点で米国と距離を取り、隣国・中国との二十一世紀的な向き合い方を模索し始めた新たな国家像に見えます。
ある意味、現代の韓国はアジアの炭鉱のカナリアです。
この後、着実に中国の影響を受けながら韓国はアップデートを試みるのでしょうが、次の刷新に成功すれば、朝鮮統一が実現し、韓国が抱える構造的な少子化、行き詰まり、小さな市場規模は解消され、しかも北朝鮮の軍事技術と韓国の高度な産業構造が絡み合い、背後に最先端技術基盤を有する中国を据える構造に向かう可能性があります。
つまり、今世紀中に韓国は、私たちの想像を超えた進化を遂げる可能性を秘めているのです。
こうなると、窮地に追い込まれるのは日本です。未だ米国と距離を取る決断ができず、中国との付き合い方も杜撰。デジタル後進国となり、国民の大半はパスポートさえ持っていない。
既に、日韓の未来は決しました。
ソウル市内で始まった高速な地殻変動。日本の若者が足繁く韓国へ通うように、私たちは既に、韓国から次の国家像を真摯に学ばなければならない時代に突入したのです。

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■ 2. 国つ神計画研究所
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統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。
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誰もが名前くらいは聞いたことのある『魏志倭人伝』。古代日本の鍵を握りながら、未だ解明されない謎の邪馬台国を伝える文献は、女王・卑弥呼が君臨した国として記されています。ですが、未だ邪馬台国は解明されておらず、畿内説と九州説を筆頭に、所在地を巡る論争も終結していません。
なぜ、邪馬台国は明らかにならないのか。
その理由は、決定的な発見がないからではなく、意外な盲点を考えてこなかったからです。それが、元ソースの誤字・誤植です。
そもそも邪馬台国について記した史料は、魏志倭人伝に限られます。その唯一の史料が、時代ごとに誤字・誤植が起きていた姿が徐々に明らかとなっているのですが、そこには中国語の音韻変化も絡み合っています。つまり、邪馬台国の所在が不明なのではなく、文献の伝授過程の問題、中国の皇朝交替の影響、最新技術の利用などの複合的な要因が、所在の特定をはばむ壁になっていたのです。
先に言ってしまえば、「邪馬台/ヤマタイ」は誤字・誤植で生まれた新しい文字・音であり、本来は「邪馬臺/ヤマト」です。卑弥呼在命時の魏の人々にとっては「イアマデオ」に近い発音となり、音自体は「yamadö」となります。
ややこしいのは、これが当時の中国語の言葉に由来せず、倭国という異種族が住む国の人々が話す言葉だったことです。そのため、時の魏の使者が聞いた国名は、異なる言語の音を、彼らの母語で理解する変換作業を介したということです。
分かりやすく言えば、私たちが英語のカタカナ言葉を英語圏の人々にそのまま話しても、伝わらない感覚です。
もう一つ重要なことは、魏志倭人伝という書物は存在しません。これは日本側の通称であり、正確には『三国志』の中の魏書東夷伝倭人条のことです。位置付けとしては三国志の魏の見聞となっていますが、三国志が編纂されたのは280年代頃、西晋の歴史家・陳寿の手によってです。
280年代と言えば、三国時代の魏・蜀・呉の三つ巴の戦いが終わり、263年に魏が蜀を滅ぼし、晋(西晋)となった魏が、280年に呉を滅ぼして中国統一を成し遂げた後です。
さらに魏志倭人伝の記録が持つ特徴は、編纂者・陳寿が直接調査したものではないという点にあります。事実、彼自身は一度も倭国に行っていません。あくまでも、彼の登場前に魏の使者が倭国に渡り、そこで見聞した内容に基づきます。
また、歴史を編纂する場合、三国時代の勝者となった魏の意向が関わることは避け難く、必然的に蜀や呉の伝聞が魏の功績として紛れ込みます。ゆえに、本来は呉の倭国見聞だったものが、魏の見聞に転移するようなことは、しばしば生じたということです。
実際に倭国へ到来した魏の使者は、二人知られていますが、両者は使者としての性格が大きく異なります。最初が240年の梯儁(ていしゅん)、次が247年の張政です。
当時、魏は朝鮮半島中西部の帯方郡、北部の楽浪郡を実効支配しており、そこには魏軍が駐在していました。これは同地一帯を支配していた公孫氏が、魏によって滅ぼされたからです。この半島側の動乱は海を超えた日本列島に即座に伝わり、邪馬台国の女王・卑弥呼は迅速に使者を派遣し、帯方郡経由で魏の皇居がある洛陽へ入っています。
この時、魏は「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡等を使者に授け、240年に梯儁を倭国へ派遣しました。簡単に言えば、魏・蜀・呉のうち、魏への忠誠を邪馬台国が誓った見返りに、魏の圏域に属する意味で「倭王」(倭国側の統治者)の称号が正式に卑弥呼に付与されたのです。
ゆえに梯儁は、「調査のために選ばれて来訪した」のではなく、卑弥呼が締結した朝貢関係への返礼・冊封の実行者として来た使者です。魏が倭国と関係を築く利点は、南に位置していた敵国・呉を牽制できたからです。
もう一人の張政は、かなり異なる文脈で登場します。事の発端は247年、新たに帯方郡の責任者に着任した王頎の頃、卑弥呼が狗奴国の男王・卑弥弓呼との交戦状況を帯方郡へ報告したことに始まります。これを受けて、王頎は張政たちに詔書と黄幢(軍旗)を携えさせて、倭国へ派遣しました。
つまり、張政の任務は調査ではなく、梯儁のような献上物の受け渡しでもなく、邪馬台国と対立していた狗奴国との戦争に際した魏側の外交支援と告諭にあったのです。彼は数年間邪馬台国に留まりながら、卑弥呼の死、後継をめぐる混乱、卑弥呼の宗女・壹與の即位までを見届け、壹與を告諭したうえで倭の使者とともに帰還しています。これ以降、中国側の史料に古代日本は登場しなくなるため、壹與がどのような執政を行ったのかなどは分かりません。
事実、魏志倭人伝は後半にかけて記述が生々しくなりますが、これは長期滞在した張政の実際の見聞に多くを負うからです。
この文脈から見えてくることは、使者の任務が異なっていたことです。ここで思案すべきことは、張政は邪馬台国を訪れていますが、一方で梯儁は邪馬台国を訪れていなかった可能性です。
長らく、梯儁の記録が魏志倭人伝の大元になったと前提されてきましたが、実際には梯儁は九州北部には上陸したが、邪馬台国の女王・卑弥呼とは接触していないと考えられています。つまり、梯儁は邪馬台国へは行っていない。なぜなら梯儁の役割は、親魏倭王の称号と金印・銅鏡等を届けることであり、邪馬台国に滞在することではなかったからです。
当時の九州北部の中でも、伊都国(現・糸島近郊)は邪馬台国の外交・軍事の要衝であり、邪馬台国側の駐在員が居住しており、倭人と呼ばれた人々が居住していました。
この示唆は、魏志倭人伝の内容の大部分が、極めて限定的な見聞と又聞きに基づいている可能性を露わにしています。
梯儁は九州北部に上陸後、女王が所在する邪馬台国があまりに遠いことを聞いて来訪を断念。倭国の使者(倭人)に魏の皇帝から授かった献上品を渡し、任務を終えて帰国したことが考えられます。
一方、邪馬台国の戦争支援を目的に派遣された張政は、当然、数年間に渡って中枢の邪馬台国に滞在しています。彼らの見聞が、海を超えて半島側に駐在する魏軍に伝わり、そこで収集・選別された情報が、洛陽の皇帝にもたらされたのです。そのため、複数の時代の見聞・又聞きが錯綜しており、最終的には編纂者の判断で統合されています。
また、一般に倭国を日本と同一視する傾向がありますが、倭国=日本ではありません。倭国とは、極めて限定的な地域の呼称でしかないからです。ゆえに卑弥呼は「日本の女王」ではなく、あくまでも邪馬台国という限定的な国、そこに服属、あるいは協働する同盟国にのみ力を持っていた存在です。
当時の日本は統一されておらず、各地に力が分散するモザイク状態となっていました。邪馬台国はその筆頭の一つに過ぎなかったということです。ただし、中国の魏から認められています。
この観点で見れば、当時の日本列島の中には、呉や蜀と同盟に近い関係を持った国も存在したと考えるのが妥当です。
そして三国志の文献自体は、陳寿が280年代に脱稿したものの、彼が297年に死去したことから、300年代を前後に、皇帝の詔命で官人が陳寿の家に行き、写し取ったものをベースとしています。つまり、三国志も陳寿の原本ではなく、かなり政治的意図の強い官僚的な改ざんが行われたのです。
これが三国志成立の基本背景ですが、当時は史料的な役割に過ぎず、今日のように広く読まれるものではありませんでした。
しかし、100年ほどが経った429年になると、裴松之(372-451)という政治家・歴史家が、陳寿の三国志として伝わっていた写本の一つを底本として、注釈を加えた三国志を書き上げます。これが評判となり、三国志が広く読まれる最初の時代を迎えます。
その後、無数の写本が各地で作られたことが想定されますが、画期的な転換点は遥か後代に北宋(960-1127)で印刷技術が発明されたことです。畢昇(972-1051)という人物が発明した世界初の活版印刷術は、11世紀前半から中期頃に最盛期を迎えており、ここで爆発的に三国志が広まります。
その直前の1002〜1003年頃には、北宋の中央学校を統括する教育行政官庁の校訂で、三国志の刻本が出されています。
北宋の時代は、中国国内で学問復古が起きた黄金時代であり、儒教を軸とする学問奨励が国家的に推進されました。これは北宋以前の大文化時代だった唐(618-907)の末期頃に起きた動乱の渦中、伝来していた無数の書物が散逸した苦い経緯があったからです。
そこで北宋は教育行政官庁を設立し、932年頃から20年の歳月をかけて、再度書物を伝来するためのプロジェクトを始めました。この学問復古・書物復古の流れに、新たなテクノロジーである活版印刷技術が合流し、11世紀初頭の時点で三国志が印刷、普及が始まったのです。
しかし、これが後に日本で生じる邪馬台国論争の原因となります。中国は幾度も皇朝が替わるため、元となった版本も複数に分かれており、大部分は歴史過程で失われてしまいました。そのため、歴史的な魏志倭人伝の研究に限定すれば、大体5種類の版本が利用されてきましたが、肝心の北宋初期の版本も失われており、現存最古は12世紀半ば以降、そこから18世紀前半頃までの新しい版本が利用されます。
つまり、印刷技術成立後の版本しか残っておらず、写本はすべて散逸してしまったのです。千年近くの歳月が経てば、中国側の言葉も相当変化するため、かつて邪馬台国がどのように呼ばれていたのかが、曖昧になっていきました。
こうした中国特有の事情により、数百年から千年以上の歳月の中で、版本には数えきれないほどの誤字・誤植が生まれました。やがて、日本側に伝来する過程でも誤字・誤植が起こり、そもそも日本側で議論が始まった時から、既に多大なズレを孕んでいたのです。
これが結果的に、邪馬台国論争の着火点となったのですが、長らく研究者は誤字・誤植が原因とは思いもしなかったため、「所在」を求めて奔走してきました。ですが、実態は誤字・誤植であり、少なくとも音の観点で「yamadö」に注目しなければ読み解けません。
現・奈良盆地の中南和が、かつてヤマト(大和国)と呼ばれたように、邪馬台国の女王・卑弥呼は、ヤマトなる国に関わる人物です。こう考えると、奈良を比定地とする畿内説が有力に思えるでしょうが、するとどうして九州説が双璧になってきたのか。
興味深いことに、九州には「yamadö」の音を持つ地名が残っています。それが現・福岡県南部のみやま市近郊なのですが、同地はかつて筑後国山門郡であり、「山門/ヤマト」でした。
「山の門」と書いてヤマト。
一体、古代移民の玄関口だった九州北部で、ヤマトと称した人々は何者だったのでしょうか。
そして、彼らの子孫はやがて畿内にまで移動したのでしょうか。
邪馬台国の謎は、まだまだ解明されそうにありません。

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■ 3. 使命を果たすための精密栄養学
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日本や世界の現状を憂い、少しでも未来を変えたいと思う現代人にとって、本当に必要なのは最低限の健康知識です。
どれだけ志が高くても、不調になると心身共に疲弊し、道半ばで諦めてしまうもの。
そこで本コーナーでは、使命を全うするために、最低限の健康知識を最新の精密栄養学の視点で提起していきます。
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芒種(6月5日頃)を迎えた最近は、関東甲信が平年梅雨入りする時期に相当し、湿度65-75%が常態化します。この高湿環境は、多くの方々が不調を訴える時期であり、5月病を乗り越えた先に待つ難所でもあります。
この時期の不調は、梅雨で太陽の日差しが出ない日が続くこと、高湿環境が腸内細菌叢のバランスを乱すことなど、複合的な要因によって起こるものですが、日本のような高温多湿の国では、最低限のマネージメントが年末に向かって快活に過ごすための鍵となります。
そこで日常の設計に組み込みたいのが、ビタミンDです。
ビタミンDは、精神と体を元気にする栄養素と呼ばれており、「太陽のビタミン」として知られます。健康への寄与は高く、全身の健康維持に不可欠な栄養素であり、その作用は骨の形成、免疫力強化、心の健康など多面的です。
なにより、ビタミンDは幸せホルモンのセロトニン産出を促すため、心の安定をサポートするためには欠かせません。例えば、冬季は日照時間が減少するため、多くの人が季節性うつや、季節性情動障害を経験しますが、これは冬の日照不足が体内のビタミンD生成を減少させ、セロトニン低下によって、気分の落ち込みや不安感が増すからです。
梅雨時期も同様に、ビタミンD生成は減少し、多くの人が心の問題を抱えます。そのため、適切なビタミンD補給は、季節性うつを予防・緩和するためにも重要です。
単に現時点での健康に限らず、ビタミンDは生涯の人生設計に大きく影響します。なぜなら、いかに志が高くても、体と心が追いつかなければ、先に進むことは難しくなるからです。中でも代表的なのが、記憶と骨です。
現在、日本を含めて世界的に若年世代の脳機能低下、特に記憶力を維持する海馬の機能が弱くなっていることが問題視されており、実際に20-40代の若年性アルツハイマーが国内でも急増しています。ビタミンDは、この海馬の機能を促進し、ホルモンバランスの調整に関わり、精神状態を整える作用があります。
また、高齢化社会に達して判明した通り、自らの人生を生き抜くために必要なことは、死ぬまで自分の足で歩くです。どれだけお金があり、健康的でも、歩けなければ日常に大きな規制がかかります。そのため、早い段階で骨形成に取り組むことは、長寿時代を生きる一つの原則となります。
しかし、日本人のビタミンD摂取量は、非常に低い現実があります。まず、ビタミンDにはD2とD3があり、D2は植物や菌類に含まれる形態で非動物性です。干し椎茸などのキノコ類に豊富に含まれており、植物が紫外線を浴びることでD2が生成されます。
一方、D3の供給源は太陽光と魚類、さらに卵や肝油などの動物性食品です。特に魚類のサーモンやマグロなどは豊富なD3を含有しています。
ここで重要なことは、ビタミンDを体内で活性型に変換することです。活性とは「使える形」にすることですが、実はD2は非活性型ビタミンDであり、D3が活性型ビタミンDとなります。私たちが健康効果を考える場合、必ずこのD3を摂る必要がある点には注意が要されます。
そして骨の健康には、ビタミンD3とビタミンK2が関与します。D3はカルシウムを増やし、K2は骨にカルシウムを輸送する作用を持つため、骨密度向上につながります。
K2は納豆などに多く含有されているため、かつての日本人が、魚中心の食生活でD3を補給し、納豆などでK2を補給していた効果が理解できます。先人の食生活は、場所環境ごとに蓄積された叡智の賜物なのです。
次週は、このビタミンD3について、もう少し深掘りしていきます。

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■ 4. KINEMA 2400
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江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。
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第二次世界大戦を生き残り、戦後日本映画に息を吹き込んだ黒澤明、溝口健二、小津安二郎などの巨匠たち。彼らの創作の背後には、戦時を生き延びられず、惜しくも亡くなった多数の映画人たちの無念があります。
中でも、戦前の日本映画に革新を起こし、将来を期待されながらも、亡くなったのが山中貞雄です。
わずか28歳で生涯を終えた山中貞雄は、戦前の日本映画界に新風を起こし、1930年代最高の映画監督と評されていましたが、1937年に日中戦争に召集され、翌年に中国で戦病死してしまいます。
たった5年間の監督人生で、26本もの映画を発表した山中貞雄。しかし、戦前はフィルムの保存という考え方がなく、映画は「旬物」として扱われていました。そのため、制作し、上映すれば、そのまま後は行方不明というケースは珍しくなく、また当時のフィルムは可燃性であったため、発火したり、紛失するなど多くの作品が失われます。
そのため、山中貞雄のまとまったフィルムは、わずか3本しか残っていません。
ですが、その3本で、当時20代後半に差し掛かった一人の映画人がとてつもない才能を持っていたことは十分に体験できます。22歳の若さでデビューした山中貞雄が遺した作品中、現在もまとまって見ることができるのは、1935年『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』、1936年『河内山宗俊』、1937年『人情紙風船』です。
彼はデビューが1932年のサイレント映画期ですから、晩年のトーキー映画(音声あり)が残っただけです。しかし、いずれも完成度は素晴らしく、1930年代の暗雲立ち込める世情の暗さに反抗するように、独自の感性で描いています。
また近年、山中作品は4Kデジタル修復が行われています。2020年に現存3本の作品が修復され、美しい映像とクリアな音声で甦り、同年の第33回東京国際映画祭で上映されました。
作品に通底しているのは、関西生まれの山中らしいユーモアのあるストーリーです。彼の作品からは、昭和初期の暗い時代にあって、映画まで陰気になってはならないという孤独な意気込みを感じ、全体的に暗い調子で進められながらも、心が穏やかになる表現が随所で行われています。
当時、劇場で山中作品を観た人々が、不吉な世界で笑顔になった姿が想起できます。
『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』は、芸者あがりでスター歌手となった新橋喜代三の演じるお藤が経営する矢場に、戦前の時代劇スター・大河内傳次郎が荒くれ者の用心棒・丹下左膳として居候。店を舞台に、父を失った子供を引き取ったり、百万両の所在が記された地図が隠された壺を巡り、翻弄される人々を面白おかしく描いています。
『河内山宗俊』は、戦前から戦後の名俳優で、1931年創設の前進座(劇団)の創設メンバーでもある河原崎長十郎と中村翫右衛門がタッグを組み、特徴の異なる二人の掛け合いが見事に演じられます。おもしろいのは、山中貞雄は上方の生まれで、二人は生粋の江戸っ子だったこと。彼らの融合が作品に独自の情感を生み出した名作です。
『人情紙風船』は、時勢の暗さが映画界にも忍び寄っていた時期に制作されたもので、山中貞雄は完成と同時に徴兵されたため、遺作になってしまいました。以前の二作からは一変し、全体的に鬱積とした雰囲気で展開されていきますが、それは山中貞雄自身の心の不安定さを投影したようです。人情は紙のように軽い、人の心は軽薄だという例えを古くから「人情紙の如し」と言いますが、この時代は軍部の意向が人々の暮らしを巻き込み、徐々に相互不信が蔓延した時代です。
当時、人と人の関係から戦争が剥奪し始めた「人情」。
山中貞雄が表現した一世紀近く前の作品は、同じく人々の関係から人情が消え去った今、共鳴するものがあると言えるでしょう。

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■ Jihan Jinko Vol.7【2026年6月9日発行】
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