
Vol.8
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1. 思想の森:
思想の反映としての都市論
2.国つ神計画研究所:
神とは何か
3.使命を果たすための精密栄養学:
乳がんとビタミンD
4.KINEMA 2400:
銀幕という情感
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/2026年6月16日発行/
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■ 1. 思想の森
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儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。
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岩手山の麓に鎮座する岩手山神社。ここに何度も足を運ぶ理由は、好みの霊水が湧いているからですが、同時に「蝦夷と和人」が渾融した震源地の記憶を持つからです。
霊力に満ちた湧水を身体に溶け込ませるように口にすることは、異なる場所に足を踏み入れるための神聖な儀式であり、身体を通した「異神との対話」でもあります。水は土地の魂そのものであり、古くから「水が合う」「水が合わない」という言葉があるように、必ず各人それぞれに合う土地があり、それをできるだけ早い時期に特定しておくことが重要です。
元々、岩手山神社は平安初期の801年、朝廷の命を受けた将軍・坂上田村麻呂率いる軍勢が蝦夷討伐を行なった際、国土鎮護を祈願して建立したといわれています。その後も、1062年に在地の安倍氏を討伐するために、源頼義が祈願して勝利を治めたと語り継がれています。
この歴史から、岩手山神社には平安京の人々が武力を伴う侵略を成就した記憶が宿りますが、それは歴史書の中の話です。実態は、異族(坂上田村麻呂)が場所の霊魂である「クニタマ」と呼ばれる古層の魂を領有し、在地部族を霊的に征服した記憶です。
歴史的には、近隣のアテルイとモレという在地部族の首長が坂上田村麻呂に拘束され、平安京まで連行されましたが、現地で見聞を深めた田村麻呂は、都で拡散される「野蛮人」という評価は、蝦夷を知らない人々の妄言だと理解していました。
そこで即時処刑を要求する朝廷の為政者に対し、「国で広く崇敬される人格者を処刑すれば、蝦夷は朝廷に一層歯向かうだけだ」と反論します。
しかし、蝦夷を極度に畏れていた朝廷は、田村麻呂の説得を無視して大阪枚方で首長たちを処刑しました。今も京都の名所・清水寺には、ひっそりとアテルイとモレの慰霊碑が建立されています。
それから千年以上の歳月が流れましたが、私たちは今、当時とは違った意味で、未曾有の危機に直面しているように感じます。
まず、今週、岩手から東京に入った時にも感じましたが、周囲の話からも鬱病に悩んでいる人々が非常に多く、東京の都市神経は麻痺しています。あまり鑑みられていませんが、鬱状態に陥ると、同じ場所、同じ人、同じ通勤・通学路などの慣れ親しんだルーティンが、嫌な記憶を反芻する牢獄へと反転します。
この反芻思考が鬱をより深刻にし、単独での脱出を困難にさせるのですが、こうした状況を打破するには、思い切って身体ごと移動し、自分に合った土地の土を踏み、風を浴び、水を取り込むことが特効薬になると経験上感じます。今後、この「自分だけの特効薬」を知っているか否かは、想像以上に重要になると考えます。
先月末に発表された2025年国勢調査速報値によれば、日本の総人口は外国人含む1億2304万9524人となっていますが、減少傾向が年々激しくなっており、2020年からでは約310万人も減少しています。減少幅は過去最大となり、減少率も前回の0.7%から2.5%と崖を転げ落ちるようです。また統計は労働移民の外国人数で覆われており、事実上、粉飾されているため、実態を見極める必要があります。
日本人の実態数を考えると、日本列島から相当数の人口が5年で消えたことになります。さらに表面化した史上初の問題は、東京、沖縄を除く45都道府県すべてで人口が減少したことであり、本土側の一極集中傾向が未曾有の次元に達したことを示しています。
特に若者は、生存のために地方から東京への流出が加速しています。これまでは東京、名古屋、大阪、岡山、仙台、福岡など、地域ごとに集中する都市は分散されていましたが、今では大阪など大都市と言われたかつての都市部から、東京への流出が加速しているということです。この現象は、日本政府がまったく想定していなかったことであり、既に異常事態に入ったことを示しています。
そして東京への一極集中問題で意外に考えられていないことは、仮に東京に人々が移住しても、ほとんどの人々にとって、東京は「水が合わない」土地である可能性があることです。つまり今起きていることは、1990年代初頭のように、エネルギーの高い場所(東京)に人々が引き寄せられているのではなく、「水が合わない」にも関わらず、最低限のインフラと生存環境を求めて、多くの人々が吸い寄せられている歪な現象です。
この傾向は今後も避けられない以上、都市生活者ほど「魂のヒーリング」を日常に設計する必要があります。
ですが、情報が氾濫する今日、多くの人々は「自分にとって水が合う」土地を探す自立的な力を失い、情報に左右されて「誰かにとって水が合う」土地に出向いてしまい、むしろ霊力を剥奪される危機に陥っています。
二十一世紀に加速したパワースポットブームの本質は、土地における先人の営みの系譜を断ち切り、文脈を無視した汎用的な世界へスピリチュアリズムを転倒させる動因でした。例えば、近代神道で日本最高峰の位置付けとなった伊勢神宮(内宮/皇大神宮)は、中世から伊勢詣りが盛んに行われ、貴族や庶民の信仰の母胎となってきましたが、有名だからと言って、誰でも伊勢神宮が合うとは限りません。
日本各地には土地に根差した無数の神社があるからこそ、本当に自分に合う神社か否かを随時判断することが必要となります。自分に合わない神様を奉祀していたり、先祖が敵対していた歴史を持っている土地の場合、せっかく訪れても厄災を被るリスクが高まるからです。
京都ひとつを見ても、平氏か源氏か、南朝か北朝か、で出向く先は異なりますし、霊的感度が高い人ほど行ってはならない場所が多くなります。こうした歴史背景を先祖、霊的系譜から読み解くことにより、旅は心身ともに充溢する魂の休養となりますが、一方で自分の都合で来訪し、合っていなかった場合、最悪の場合は祟りに遭います。
都市と田舎を往来すると見えてきますが、都市部の人々は見えない世界を忘却し、田舎の人々は神々への祈りを失いつつあります。ある意味、日本の深層に潜む問題は、表面的に生活に影響する経済・産業の衰退以上に、霊障ではないかと常々感じます。
戦後日本は米国式の都市開発によって、コンクリートで都市を覆ってきましたが、これによって「気」が滞るため、そこに暮らす人々の表情は悪くなり、人間関係も不信に陥ります。
かつて日本では、どの都市でも設計時に考えられたのは「気の通り道」でした。例えば徳川幕府が鎮座していた江戸は、初代・家康が風水の四神相応に則り、新たな都の礎を決定しましたが、ここで最も思案されたのは「気」です。
古代中国の叡智・四神相応とは、東に青龍の宿る川、西に白虎の宿る大道、南に朱雀の宿る開けた水域、北に玄武の宿る山がある理想的な土地のことです。これは自然環境の恩恵を授かり、都市を営む思想であり、為政者にとっては安定した統治に結びつく重大な問題でした。
そもそも明治以前の日本人は「人間(主体)」が「自然(客体)」を征服するという西欧的な考えを持っておらず、都市設計でも自然環境から人間の営みを思案し続けました。言い換えれば、「気」の巡りから人間の営みは設計されたのですが、明治維新以降、急速にこの観点が失われます。今、この失われた感性が一人ひとりの心の奥底で、叫び声をあげているのです。
家康は四神相応に基づき、江戸城(現・皇居)を真中に据え、玄武の宿る北に山(麹町台地)、青龍の宿る東に川(隅田川)、朱雀の宿る南に海(東京湾)、白虎の宿る西に大道(東海道)を配置し、気が巡る螺旋イメージを江戸の都市に反映させています。
さらに日枝神社から神田明神は、鬼門・裏鬼門として江戸を異族・悪霊・厄災から守護する役割を与え、現・明治神宮の鎮守の森から皇居、寛永寺にかけては南北に守護線が巡らされています。
つまり、都市を率いるリーダー自らが、古代の叡智を現代に活用し、新たな都市開発を思想から行なっていたのです。これは元々、都市が思想の反映であり、その思想如何で土地に暮らす人々の表情まで変化した歴史を示しています。この都市設計に関わる思想が、今日はありません。なぜなら、「見えない世界」を為政者も国民も考えていないからです。
では一体、現代の為政者に「見えている世界」は何なのか。それが、コンクリートです。
自民党や東京都知事は、国民や都民のためではなく、ゼネコンの傀儡政権となり、コンクリートの方が人命よりも尊い歪な権力構造を抱えています。昨年の大阪万博を見ても分かるように、目的はIR(統合型リゾート)であり、2030年秋頃の開業を予定していますが、それまでの食い扶持として万博が誘致されました。結果、ゼネコンは何もない人工島に万博を建築、解体し、何もない人工島にIRという巨大建築を建築する何重もの旨みを得ました。
当時も今も語られることはありませんが、急ピッチで進んだ万博のために全国の建築労働者が大阪の人工島に放り込まれた結果、犠牲になったのは能登半島地震の被災者でした。昨年の万博期間中に能登半島を一周しましたが、復興に関わる人員不足の影響で、珠洲から輪島にかけては地震発生直後の風景が広がっていました。
そして人命よりもコンクリートを優先する日本社会の風景は、実は能登半島に限りません。
東京都内でも、高層商業施設やマンションが今も建設ラッシュに湧いていますが、2023年11月に開業した麻布台ヒルズへ足を運ぶと、外国人観光客を除けば週末も閑散としており、閉店も目立ち始めています。当初の目論見とは裏腹に、既に大規模商業施設が時代遅れになっている姿が垣間見えますが、人々が足を運ばないにも関わらず、建設だけは止まる気配がありません。
家康以来育まれてきた江戸的な気の循環構造は破壊され、南の海から吹く潮風は沿岸部の高層マンションによって遮断されました。
東京都民は、政治家とゼネコンによる都市設計公害と言えるヒートアイランド現象に悩まされて疲弊を重ねていますが、本質的な問題は気候変動ではなく、都市における四神相応思想とのズレにあるはずです。
ズレた状況下で信仰や祈りを回復することは不可能に近く、人々は都市に閉じこもって外に出なくなります。結果、日本中の悪い気が一極集中によって東京都心に滞留し、重苦しい空気に支配される。同時多発している都民の鬱病は、個人の精神疾患というよりも、都市そのものの環境問題として見直す必要があります。
そしてその環境問題の原因は、自然や気候ではなく、人間の飽くなき欲望です。
日本列島の気の巡りが完全に停滞した今、私たちはどう未来を描くのか。
気を巡らせる場所設計の連鎖が、二十一世紀後半のテーマになるだろうと感じます。

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■ 2. 国つ神計画研究所
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統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。
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神とは何だろう。
先週、船で三陸沖に出る道中、友人と対話を重ねた神の存在。神は説明すると遠ざかる存在ですが、個人的に神の理解は頭で考えるものではなく、原体験に基づくと考えます。
まず、古伝承を編纂した古事記(712年)や日本書紀(720年)には、「神とは何か」という問いもなければ定義もありません。つまり、8世紀前半までの祖先は、神への問いや疑問を持っていなかったということです。それは神が存在しなかったからではなく、人が問いかける境地に神が存在しなかったことの表れです。
では一体、どの段階で神への問いが浮上したのか。逆説的ですが、神への問いが各人の中で自覚された時、神は姿を隠したように思えます。
実際、神話でも冒頭に登場する創造神のアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒ、ウマシアシカビヒコヂ、アメノトコタチの「別天つ神」と呼ばれる五柱の神々は「隠身(かくりみ)」として表されます。
ターニングポイントは、仏教伝来です。改めて考えると、信仰や祈りの対象が理論化されていなかった時代を生きていた人々が、突然、鋳造された仏像と壮麗な寺院を有する宗教を前にした時の心理的な衝撃には、想像を絶する亀裂があったはずです。ただし、仏教伝来は538-552年頃と言われていますが、根付くまでには相当な歳月を要しました。
こうして大陸宗教との接触が深まる過程で生まれたのが、中世の本地垂迹説です。これは貴族や皇族などの為政者を教団に取り込んだ僧侶が、庶民に仏教を広める普及段階に入った時、彼らにとって馴染みのある観念を利用する方法を考え出したことに始まります。
この時、仏教の信仰対象である仏や菩薩が日本の衆生を救うために「仮の姿(垂迹)」で顕現したのが神だと位置付け、その「本体(本地)」は仏だと理論化します。ここで重要なのは、実態を持たなかった神が仏を介して実体化されたことであり、偶像崇拝において表裏の関係に回収されたことです。
つまり、神は仏を通じて血肉を獲得し、信仰対象として人々の祈りを引き受ける姿を得たのです。
本地垂迹説は効果を発揮し、天照大神は密教の大日如来、八幡神は阿弥陀如来などとして再定義されていきます。この神仏混合の結果、「神と仏」が二元的世界で語られる素地が形成されました。
二元論である以上、反転も可能です。実際、神と仏の関係に反転を加えたのが、室町時代の神道家・吉田兼倶でした。
京都市の聖域・吉田山に本宮を構える吉田神道(唯一神道)の創祀者となった吉田兼倶は、本地垂迹説を反転し、神道が根本(種子)であり、儒教は枝葉、仏教は花実に過ぎないと喝破します。これを「根本枝葉花実論」と称した兼倶は、神を万物の根源に置き直すことで、後世にまで強い影響を与えます。
反本地垂迹の立場から独自の教義を説いたカリスマ宗教家の吉田兼倶により、神道からすべてが派生したという新たな宗教的価値観が生み出されたのです。
歴史的に見ると、神や神道は仏や仏教によって宗教的に肉付けされたと言えますが、この二元的な素地は神の実態から遠ざかる原因にもなりました。ある意味、神は言葉によって論じることができないがゆえに、言葉を使うと、語り手を通じて時代ごとの教義やイデオロギーによる変容を被るからです。これが神の肉体です。
その後、仏教の影響が減衰する江戸時代に入ると、力を獲得した儒教を背後に据える儒家神道などが登場し、神は儒教精神に結びついたりしましたが、反動的に登場した国学の大家・本居宣長は、神とは天地の神々や社の御霊に留まらず、人間をはじめとする鳥獣木草・海山に至るまで、尋常ならず優れた徳があって可畏き(畏れ多い)ものすべてを指すと論じました。
宣長が優れていたのは、神は人間の「理」では測り得ない不可知のものであり、頭脳によって論じることができないと考えた点に尽きます。ここで神の正体を「可畏きもの」と捉えた感性は、宣長が頭ではなく、原体験で神を知っていたことを表しています。一方、当時も昔も神を論じる知識人は原体験を持っていない場合が多数であり、宣長のように原体験を言語化することはなく、あくまでも自らの生きた時代性格の影響から論じることを避けられませんでした。
本来、神を語るのに言葉はいりません。
その後も散々神は語られてきましたが、いまいちピンと来ないのは、誰もが知識によって神を語るからであり、そこに知識以前、言葉以前の原体験がないからです。一方で友人が語った経験は、神が何であり、誰のもとに存在するかを如実に表しています。
神は学者の脳内にも書物にも存在せず、土地を生きる民の日常に存在します。
土地が異なれば、自然環境も異なり、風俗も異なる。だから日本では八百萬の神であり、場所ごとに無数の神が多元的に共存してきたのです。
西を奥羽山脈、東を北上山地に囲まれた北上盆地で生まれ育った友人は、ある時、突然海から呼ばれたと語ります。その強い意志に導かれて船を購入し、定期的に一人で三陸の沖合に出て静かに時を過ごす。
エンジンを止めれば、周囲は波の音に包まれ、壮大なリアス式海岸の絶壁が海面に鎮座する。他に船はおらず、広大な海原にたった一人身を置く経験が、彼の心の奥底にある原始の記憶を蘇らせたのです。
その瞬間、彼は「畏怖」を感じたと言います。しかしそれは嫌な感覚ではなく、むしろ還る場所に還ってきた感覚であり、魂が共鳴するものです。宣長が語ったように、友人が海原で抱いた原体験は、「理」では測りえない不可知のものであり、それが神の御業です。
私自身、早朝の白神山地の森に佇んだり、夕闇に包まれた鳥取砂丘で吹き寄せる潮風を浴びたりすることが大好きですが、それはその瞬間、言葉にできない心地よい畏怖を感じるからです。その畏怖は神との接触であり、木立の揺れ、吹き抜ける潮風、荒波の音などが、すべて神の言葉として翻訳されます。
近代以降、神は信仰対象としての祈りを失い、分析対象として論じられる存在へと転化しました。この瞬間、私たちの中から何かが失われたのは確かですが、今も昔も神は畏怖の原体験に多元的に実在します。
いくら神話や古伝承を読んでも神を感じることはありませんが、一人で早朝の森や夕闇に包まれる海岸、暁闇の大海原に身を置いた時、人間は言葉にできない畏怖を感じる。その原体験を持って、神話や歴史に取り組むこと。
なぜなら、その瞬間だけは太古から変わらぬ風が吹くからで、そこに神は宿っているからです。
神とは人類が持つ共通の記憶ですが、漠然とした不安でもあるため、人類はその記憶を封じ込めて生きてきました。つまり、原始の記憶は誰もが抱えているが、覆い隠れている。
友人の原体験を聞きながら、神が坐す三陸沖に出ると、かつて海人族が感じた静かで容赦ない畏怖が、今も海原に漂っていることを感じました。

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■ 3. 使命を果たすための精密栄養学
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日本や世界の現状を憂い、少しでも未来を変えたいと思う現代人にとって、本当に必要なのは最低限の健康知識です。
どれだけ志が高くても、不調になると心身共に疲弊し、道半ばで諦めてしまうもの。
そこで本コーナーでは、使命を全うするために、最低限の健康知識を最新の精密栄養学の視点で提起していきます。
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「太陽のビタミン」と呼ばれるビタミンD。大部分は日光浴で体内生成しますが、一方で食事からの摂取が限定的という難しさがあります。
そのため、日時生活においてビタミンDの取り込みは意外な盲点となりやすく、慢性的な不足状態が続くことによって、様々な不調を誘発します。
曇りがちな地域に住む人や、日焼け止めを常用する人は、明確にビタミンD不足の傾向が高まりますが、特に女性は日焼け止めと日傘を手放せないため、全体的にビタミンD摂取に問題を抱えるケースが多いのが実情です。
しかし、ビタミンD不足は、昨今、若年世代に急増する疾患にも関わります。それが、乳がんです。
そもそも体内のビタミンD生成力は、年齢と共に低下する特徴を持っており、70歳では若い頃の25%程度の生成率まで低下します。そのため、歳を重ねるごとにビタミンD取り込みの設計が日常で必要となり、日光浴やサプリメントの活用が重要となります。
しかし、白い肌を求めてシミを嫌う現代人にとっては、本来、年々必要となるはずの日光浴を避けるようになり、無自覚のうちにビタミンD生成力を低下させてしまいます。
ビタミンDの主な効果は、骨の強化、乳がん予防、免疫力向上があり、不足するとがんや感染症への罹患リスクが高まります。
乳がんは、生活環境、ストレス、食事、ホルモン、体脂肪の複合要因が関係しており、整理すると以下のようになります。
生活環境は、プラスチック、農薬、除草剤、成長ホルモン剤などがリスクとなります。これは化学物質が体内に入り込み、ホルモンバランスを乱すからです。さらにエストロゲン様作用により、細胞のDNAに悪影響を与え、がん発生リスクを高めます。
エストロゲン様作用とは、本来体内で分泌される女性ホルモンのエストロゲン(卵胞ホルモン)と似たような働きを、他の物質が生物の体内で引き起こすことですが、これによって体内のホルモン調節バランスが崩れてしまいます。
慢性的なストレスは、ストレスホルモンであるコルチゾール分泌を加速させてしまい、慢性化すると免疫機能が低下します。この結果、がん細胞が増殖・促進するリスクが高まります。
食事では、精製糖と悪性脂肪が問題です。精製糖は血糖値を急上昇させ、インスリンの過剰分泌を引き起こします。インスリンは本来、血糖値を抑制する効果を持ちますが、過剰になるとIGF-1(インスリン様成長因子-1)というホルモンの作用を強めてしまい、がん細胞の成長を促進します。
そしてトランス脂肪酸やオメガ6系脂肪酸などの悪性脂肪は、体内の炎症反応を誘発し、がん細胞の発生や増殖を助長します。こうした食事は、外食続きの人や、コンビニなどの弁当や惣菜など、ほぼすべての日常生活に関わってくるため、注意が必要です。
ホルモン補充療法も、女性のエストロゲンとプロゲステロンのバランスを崩す要因になると、がんリスクを高める要因になります。何事も重要なのはバランスであり、ホルモンの適切なバランス管理が功を奏します。
最後に肥満です。肥満も乳がんリスクを高める要因ですが、これは脂肪細胞がエストロゲンを産生するからです。定期的な運動は、肥満防止やエストロゲン産生抑止につながるため、乳がん予防の文脈でも重要となります。
これら罹患リスクに対して、ビタミンDは免疫機能強化、がん細胞抑止の観点で役割を発揮します。
実際、血中ビタミンD濃度が高い女性は、乳がん発症リスクが通常よりも50%も低下することが報告されており、現代の女性にとって天敵と見られやすい日光は、実は現代病となった乳がん発症抑止のためにも欠かせません。
なぜ、ビタミンDが乳がん予防に効果的かと言えば、ひとつは乳房組織内でがん細胞の増殖を抑える効果を持つからです。さらに、エストロゲンやIGF-1のような成長ホルモンの過剰作用を抑えることによって、がん細胞の増殖などを抑制します。
もう一つ、見逃せないのがアポトーシスです。アポトーシス効果とは、がん細胞が自滅する作用のことですが、ビタミンDはがん細胞のアポトーシスに深く関わっており、がん細胞の増殖抑制に大きく貢献します。
またビタミンDの血中濃度が高ければ、がんの転移を防ぐ効果もあり、ビタミンDの摂取を普段から設計しておくことで、いざという時に進行を抑えることができます。
では一体、血中濃度はどの程度が理想的なのか?
精密栄養学での理想値は、日本人の場合で60-80ng/mLと高く設定されています。この理由は日本人全体に急増しているがん罹患、特に若い女性に広がる乳がんリスクを低下するために必要だからですが、日本人のほぼ全ては20-30ng/mLしかありません。つまり、どれだけ食事で健康管理をしても、ビタミンD摂取にはまったく足りない現実があります。
もちろん、がんは上述した複合要因が罹患リスクを高めますが、予防の観点で見ると、日本人のビタミンD血中濃度の低さは危険です。しかも日本人は遺伝的にビタミンD生成が苦手な特徴を持っており、日常で日光浴などを活用しても、血中濃度が上がりにくい傾向をもっています。
そこで次回は、この遺伝的要因から見るリスクについて見ていきます。

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■ 4. KINEMA 2400
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江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。
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スマートフォンやテレビで大量の映画を、好きな時に観ることが可能になった時代では想像つきませんが、かつての映画には特有の色気があり、多くの人々を心から魅了する力がありました。
面白いことに、その色気は映像自体から生まれたものではなく、映像を映し出すスクリーン側で生み出された魔術ですが、そこには日本映画特有の感性が潜んでいます。現代の私たちが、行き過ぎたデジタルを引き戻すために、アナログレコード、フィルムカメラ、紙の書籍など「失われた身体性」に回帰しているように、かつても「失われた何か」を求めた人々がいました。
その名残が、「銀幕」という言葉です。
そもそも、なぜ「銀」なのでしょうか?
まず、映画誕生に結びつく源流には、幻燈(マジックランタン)の存在がありました。2世紀の中国で生まれていたとも云われる幻燈の原理は、やがて近代西欧で発展し、江戸時代にオランダ船を通じた長崎出島経由で輸入されました。
解体新書で知られる蘭学医・杉田玄白の『蘭学事始』にも、オランダから入ってきた目新しい事物として「トーフルランターン(オランダ語で幻燈の意味を持つtoverlantaarn)」が紹介されています。実際にいつ頃輸入されたかは諸説ありますが、機械自体は18世紀後半頃、蘭学が隆盛する過程で一部に知られていたと考えられます。
そして19世紀初頭の1801年、絵師・熊吉という人物が、上野でオランダ渡来の幻燈を偶然見物した時、映画に繋がる歴史が始まります。熊吉は幻燈をヒントに「写し絵」と名付けた興行を始め、神楽坂の貸席で有料上映します。当時、江戸では「写し絵」、上方では「錦影絵」と呼ばれましたが、意外にもこのルーツが日本映画の特殊性に関わってきます。
写し絵とは、木製の手持ち映写機でガラス種板を投影し、語りと囃子をつけて見せる興行ですが、既に「暗い室内に光を投影して像を結ばせ、語り手と音楽が付く」という映画の原型が完成していました。
一方、幻燈の時代から問題となったのが光源です。映画初期は酸水素炎で生石灰を白熱させる石灰光(ライムライト)という方式が採用されており、そこからカーボンアーク灯が映写機の標準になります。アーク灯の登場によって相当明るくなりましたが、白布に投影するだけでは光が拡散してしまい、像が曖昧で眠くなります。この課題に直面した時、技術者は映写機をいじるのではなく、スクリーン側で光源の反射効率を高めようと考え、試行錯誤の結果、アルミや銀を混ぜたスクリーン(幕)が使用されるようになりました。
これはアルミや銀が光を跳ね返す金属特性を持っていたからですが、これらの塗料を使用した幕は英語でsilver screenと呼ばれるようになり、やがて訳語として「銀幕」が定着します。つまり銀幕とは、初期映画時代のスクリーンそのものを指す用語であり、暗い光源を補うための技術的な工夫に始まった言葉なのです。
映画装置が日本に伝来したのは、1896-97年頃です。まず、米国のエジソンが発明したキネトスコープという装置が1896年に当時の国際港・神戸に輸入され、翌1897年にはフランスのリュミエール社のシネマトグラフと、エジソン系のヴァイタスコープが同時輸入されます。
最初期の映画上映は、大阪や京都、浅草の芝居小屋を転用して行われましたが、この時、日本側では写し絵の名残が映画に流れ込んだため、欧米では映画が自立した視覚メディアへと転換していきましたが、日本では活動弁士と呼ばれる語り手が、映画体験の中心に居座りました。
スクリーンの脇に立ち、映画のあらすじを説明し、登場人物のセリフを語り分けて、情緒を煽る。当時の観客は「どの映画を観るか」と同じくらい、「誰の語りで観るか」を気にしたほど、日本で「語り」は欠かせない存在でした。
この写し絵時代の語り、さらに講談・落語・歌舞伎の口承的で日本的な上演文化は、早々に銀幕という新技術と合流します。
光源が幕に塗られた銀に反射して幻想的に輝く魔術めいた映像美と、土着的な語りが観客の情感を煽る。この技術と伝統の融合が、日本固有の映像文化を生み出す母胎となります。
重要なことは、日本で「銀幕」という言葉は単なる映像技術の用語ではなく、情緒そのものであり、幻燈に始まる古き良き映画の記憶だったということです。そしてこの記憶には、サイレント映画時代の活動弁士の存在が絡み合っています。
つまり、暗闇で映写機が投影する銀幕に、語りと囃子がライブで一体化する。これが「銀幕の記憶」であり、その後も日本映画の精神的残渣となっていきます。
しかし、1931年に映画技術史の大きな断層が発生し、大きな社会的抵抗に至ります。それがトーキー(発声映画)の移行です。日本初の本格的なトーキーは、1931年の五所平之助『マダムと女房』ですが、この転換は活動弁士を不要とする技術的転換点だったため、争議やストライキが多発します。
その結果、欧米ではスムーズにサイレントからトーキーへ転換できたのですが、日本ではトーキー普及がしばらく抑止され、サイレントとトーキーが併存する期間が長く続きました。
サイレントとトーキーの共存という世界的にも稀な日本の映画環境は、戦後に活躍する若き映画人たちに強烈な原体験を与えました。少年時代に銀幕ならではの魅力の虜となり、学校に行かずに映画館に通い詰めた人々が後の映画史に名を刻んだように、銀幕は単なる映画体験を超越し、まさに日欧文化の混淆地点でもあったのです。
実は、銀幕自体は1930年代の時点で白いマットスクリーンへの置き換えが進み、既に過去の技術となっていました。しかし、銀幕特有の情感に心を動かされた映画の原体験を持つ人々は、1950年代の日本映画黄金期に入ると、「銀幕」という言葉を郷愁の語彙として使用し始めます。
それは第二次世界大戦後、米国の占領下で大消費文化時代を迎えた日本人が、戦前の情感を求めて映画の原体験を投影したからです。
こうして、技術的には銀の反射幕は既に過去の遺物だった時代に、「銀幕のスター」や「銀幕の女王」という言葉が自立し、やがて日本映画というメディア全体を指す美しい換喩になったのです。言い換えれば、それは先進国の人々がデジタル以前(1990年代以前)を求めるように、当時の日本人にとっては、米国以前(1945年以前)の日本的情感への回帰だったのです。
物としての銀が役目を終えると同時に、言葉として輝きを増した「銀幕」。この情感こそが、日本映画の根底に流れる血筋なのかもしれません。

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