Vol.9

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1. 思想の森
2.国つ神計画研究所:
3.使命を果たすための精密栄養学
4.KINEMA 2400
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/2026年6月23日発行/
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■ 1. 思想の森

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儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。

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目の前の「たった一人」と徹底的に向き合い、その人が抱える本当の悩みや課題を汲み取り、解決するために己を捧げる行為。

本来、人間の営為であったはずですが、現代では目の前にいる人が見えておらず、背後の存在しない不特定多数に目が眩む方々が多いのが現実です。これは新聞、雑誌、漫画、ゲーム、テレビなどのメディア黄金時代を経て、スマートフォンの普及、SNSの浸透と共に広がった文明の負債ですが、今、人々が大きく二極化していると感じます。この裂け目の淵を生み出したのは、行き過ぎたアルゴリズムとAIです。

ひとつは、徹底的にたった一人を見ることができる人。ふたつは、目の前のたった一人を粗雑に扱い、多数に引きずられてしまう人。個人的に後者は、私利私欲に負けてしまい、中身の深さや奥行きではなく、スタイルばかりを追いかけている人に顕著だと見ていますが、往々にこうした人々は外に答えを求める傾向があります。

一方で前者は、徹底的に目の前のたった一人を見ることができ、その方との関係が生成される場所において、その瞬間、自らが持つ能力を最大限に捧げて尽くします。なぜ、このようなことができるのかを自分なりに観察し続けた結果、彼らは答えを外に求めず、内を研ぎ澄ませているからだと気付きました。

このテーマは今後改めて注目されるでしょうが、ここでいつも思い出すのは、9年前から足繁く通う料理屋です。若い大将と女将の二人で営んでいますが、素晴らしいと感じたのは初めて来訪した時でした。

最初に箸を持った瞬間、私が左利きだと見た女将が、即座にすべてを左利き用の配置に転換したのです。何も言わずとも、相手を見て、心配りをする。それを自然にできる人が、一体、世の中にどれだけいるでしょうか。こうした店は、何年経っても不変ですが、驚くことに味が落ちたことがありません。

現代の飲食業は生存競争の激しさから、途中で自らの信念を忘れて拡大傾向や効率化に走り、成否を分けてしまいます。それ自体は悪いことではなくとも、長年通い続ける常連客は、店構えと味を通して「店主が変わったこと」を瞬時に見抜きます。しかしその店は、来年10年を迎えようとする中、一度もブレたことがありません。
都市部の有名店が外貨を持つ外国人旅行者に傾倒し、常連客の顔を見なくなって利益優先に走ったようなことも起きず、媒体に一度もピックアップされたこともなければ、SNSもやっていない。

現代の作法とは真逆の位置ですが、訪れる度に深い感激を堪能できる料理は、今の日本では数少ないでしょう。

そうした「たった一人を見る」店主と女将の心は、店構えに反映され、歳月と共に暖簾、佇まい、所作、味などのすべてに底から滲透していき、やがてすべてを包み込みます。これが本来、日本が持っていた豊かさであり、美しさだったはずです。
一方、関西有数の料亭で修行していた店主は、当然料理は素晴らしいのですが、何より彼が料亭の遺伝子を継承し、大事にしているのが顧客台帳です。

9年分の歴史が詰まった分厚い紙の顧客台帳には、開業当時から訪れた客に提供したすべての料理、客の嗜好などが細かく手書きで記されており、店主は命よりも大事なものだと語ります。一度、台帳を家に忘れたことに気付いた店主は、女将に家まで取りに行ってもらったこともあると話します。

思えば、かつて地震の際に鰻屋は秘伝のタレを持ち出し、商店は顧客台帳を持ち出したように、本来、お金や資産よりも大切なのは、顧客との関係を記録した歴史だったことを今一度、思い出す必要があります。
誰にも見せたことはないと語る台帳ですが、この店には非効率・非拡大という、行き過ぎた現代では決して味わうことのできない時間が流れています。そして私たちが忘れてしまった「日本のホスピタリティ」が、ここに宿っています。

私はホスピタリティを「たった一人に向き合うことから始まる、未完の関係」と定義しています。サービスの場合は「一対多」を前提とし、しかもその「一」は代替可能でなければなりません。一方、ホスピタリティは「一対一」であり、「一」は共に代替不可能です。
サービスは社会的、あるいは時勢に応じた正解があり、提供側は顧客にその正解を交通させることで満足を演出しますが、ホスピタリティには正解がありません。

なぜなら、ホスピタリティは「一人ひとり異なる」という前提に立脚するからです。
そのためホスピタリティの世界は緩い関係ではなく、主人と客人の関係であり、同時に敵対関係でもあります。実際、ホスピタリティの語源はラテン語のhostis(敵)です。
ただし、敵とは「異人」「よそ者」のことです。後の英語hostileは「敵意」という性格を持つようになりましたが、本来は対峙する相手が自分とは異なる敵であるがゆえに、徹底的に心を尽くして歓待するという世界を持っていました。

そのため、サービスは「良し悪し」で評価できますが、ホスピタリティは一歩間違えば死に直結する苛烈な世界です。サービス提供で腹を決める必要はなくとも、ホスピタリティは一瞬たりもと気が抜けず、対峙する相手が本当に求めることを先行的に掴み取り、準備し、提供します。つまり、気が抜けない。

その精神が文化的に昇華したのが、茶道です。
今の茶道からは想像もつきませんが、かつての茶道は命をかけた世界に生きる者の現場でした。一杯の茶を口にすることは、日常を生死の淵に身を置く者にとっての安らぎであり、同時に普段の心構えが露呈する容赦ない時間でもあったのです。

ゆえに普段は利己的に生きながら、茶会の時だけ普段と違う言動を心掛けても、その着飾っただけの心の隙は、茶室で無惨にも暴かれてしまう。
茶室に入る前から、既に勝負は決していたのです。だからこそ茶人や武士は、普段から心身を律し、来たる時に備え続けたのです。

そして堺商人に源流を持つ武野紹鴎や千利休といった茶人は、次世代の覇権を巡る世界に生きる武士、商人、宣教師らと真っ向から対峙し、時に敵同士が向かい合う場で一杯の茶を淹れました。
この時代の茶は、今のような習い事や教養のためではなく、文字通り、一つ間違えば腹を切る世界です。茶道の開祖に位置付けられる千利休が、武士でなかったにも関わらず、豊臣秀吉に切腹を命じられたのが象徴的ですが、思惑渦巻く真ん中で精神を鎮め、客人と向き合う茶人の技術は想像を絶します。

それでいて日本の茶は、明代の禅僧の思想が反映された茶を源流に持っている。茶は単なる嗜好品ではなく、その時、その瞬間、対峙する相手を徹底的に見つめながら、同時に自分を見失わずに歓待する心の余白が生み出した至高の文化資本なのです。
なぜなら、その瞬間に敵味方の分離は消失し、相反共存の境地に至るからです。
これこそ、武士が茶の湯に心酔した真の心でした。

やがて茶道は流派に分裂し、流儀に固執して形骸化しましたが、それは先人の茶を振る舞う行為ではなく、作法という決まり事を体系化する道を選んだからです。
つまり、他流派との比較に目を向けた瞬間、目の前の客人に淹れる一杯の茶から、客の顔が消えた。同時に弟子数や茶会の数を競い合う不毛な時代に入り、茶道は「たった一人を見る」行為を失っていったのです。

こうしたことは茶道に限らず往々に起こるものですが、今一度私たちが「伝統文化」と呼ばれる諸々から見つめ直すべきことは、形として残った文化の死守ではなく、形なき文化であるはずです。
そこにこそ日本の先人が育み、継承してきた真の日本文化がある。

絶えるものは絶え、残るものは残る。
確かにそれは、一つの真実です。しかし、そうした結果に目を向けるのではなく、その思想の痕跡に目を向けた時、私たちは160年止まった時計の針が再び動き出すことを感じるでしょう。

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■ 2. 国つ神計画研究所

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統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。

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日本各地に鎮座する神奈備。
「かんなび・かむなび」と読む古い概念を再考しようとする時、私たちは一つの断層に直面します。それが、明治以降に歪められた「山」です。

神奈備という用語自体は、奈良時代の文献に既に記されています。
例えば、『出雲国風土記』には「かんなび」の山が4ヶ所記載されており、楯縫郡の神名樋山(現・大船山)や、意宇郡の神名樋野(現・松江市の茶臼山に比定)などが挙げられ、『万葉集』にも「神名火」「甘南備」などの表記で複数の用例があります。
少なくとも奈良時代頃の感性では、「山」に神奈備を感得し始めていた姿が示唆されているのです。

ただし、この時代の「山」は、それ以前、あるいは現代とは異なります。特に現代人にとっての「山」は、富士山や日本アルプスなど、明確に自然物である「山岳」と結びつきますが、このような感性は本来の日本になかったものです。

ここで注目したいのは、万葉集で「甘南備の三諸の山は春されば」と歌われた「三諸山」の存在です。
三諸は「みもろ」ですが、この名を冠した山は、大和国(現・奈良県中南和)に起源を持つものとして語られます。それが、三輪山です。

8世紀前半に成立した『古事記』も『日本書紀』も、共にオオモノヌシという神が鎮座する場所として、三諸山(御諸山)について記しており、『出雲国造神賀詞』に記されるオオモノヌシも、「大御和(おおみわ)の神奈備に坐せ」と記されています。
これは古い時代より、奈良県桜井市に鎮座する三輪山が、大和の神奈備として位置づけられていたことの証です。

こうした背景から、三輪山を御神体とする大神神社は「日本最古の神社」として語られます。今も大神神社には本殿がなく、山自体に主祭神・オオモノヌシは鎮まり、それを拝殿から奉祀するという世界を有しています。
現在の神道では、この奉祀形態は特殊と見做されますが、日本各地には同じような形態を持つ神社がわずかに残存しているため、大神神社の信仰は、時代の裂け目や混淆地点の痕跡として見たほうが良いでしょう。
中でも目を向けたいのが、三輪山へ登ることを「登山」ではなく、「登拝」と呼ぶ慣わしです。

「登山」における「山」を抜いた「登拝」の考え方。
ここに、江戸時代と明治以降の決定的な断層が潜んでいます。

現在は多くの方々が趣味にする登山ですが、本来、日本人は登山などしませんでした。

そもそも登山は、明治21年(1888年)に来日した英国国教会の宣教師ウォルター・ウェストンに始まりますが、その源流には、1881年に信州山岳地帯を調査した英国人の冶金技師ウィリアム・ゴーランドがいます。
ここでピントをあてるべきは、日本の登山黎明期に関与した二人が、共に近代アングロサクソン文化の象徴である英国人だったことです。

つまり、「人間」と「自然」を明確に分離する二元的世界の主導者が、それまで育まれてきた日本人の感性を破棄し、神が存在しない世界へと山を転倒させる発端になったのです。
山を巡る1880年代の転倒は、個人的に現代日本の自然破壊に連なる源泉だと位置付けており、見過ごすことのできない歴史だと考えます。
なぜなら、日本人にとって自然破壊は、信仰、習俗、風習、行為、祭祀、霊性などの全領域の破壊となるからです。そして実際、明治維新からたった160年程度で、日本はこの惨事を実現してしまいました。

ですが、「日本アルプス」を命名したゴーランド、「日本登山の父」として崇められるウェストンの功績は、不思議なことに肯定的に語られます。日本の近代化から160年が経とうとする今こそ、真摯に見つめ直す必要があるはずです。

一体、彼らの源流に流れていた感性はどのようなものだったのか?
ここを知ることが、日本人の自然観の再発見、そして信仰の復古にまで関わってきます。

大前提に、キリスト教一般の教えでは、「創造主」と「被造物」を厳格に分けます。キリスト教にとって、神は自然を超越した創造主であって、自然そのものではなく、ましてや自然の内部に宿る存在(アニミズム)でもない。これは聖書の創世記において、神が自然を創造した点からも明らかです。

よって、山も川も木も「(神によって)造られた物」であって、神とは考えません。そのため、山・川・木・岩そのものを神として拝む日本的な行為は、厳格なキリスト教では偶像崇拝となり、聖書における伝統では重い罪とされます。
この基層を踏まえた上で、「日本登山の父」ウェストンの文脈を読むことが鍵です。なぜなら彼は、19世紀の英国人に広がったポスト・ロマン主義的な感性を重視していたからです。

この文脈の源流が、英国ロマン主義を代表する詩人のウィリアム・ワーズワース、美術評論家のジョン・ラスキン、思想家で登山家のレズリー・スティーヴンです。

英国の湖水地方に生まれ育ったワーズワース(1770-1850)は、山に対する畏敬の念に満ちたロマン主義的感性の源流を開いた詩人ですが、それは山を「登る」文化ではなく、「仰ぐ」文化として捉えることから始まりました。

そして、この文脈に欠かせない存在が、英国山岳会(Alpine Club)です。
1857年にロンドンで結成された世界最初の山岳会は、ワーズワースの死後に誕生しましたが、実はこの英国発の山岳会の思想や姿勢が、現代の諸問題に繋がる思想・実践の源泉を生み出していました。

例えば、オーバーツーリズムによる富士山や日本アルプスの汚染は、この源流にある思想を見抜かないまま、単に法規制を整えても、本質的には効果がありません。この動きを見る際に欠かせないのは、ロマン主義的な感性を継承した者が、英国山岳会に対して強烈な批判を浴びせた歴史です。

一体なぜ、英国山岳会が重要なのか?
それは「日本登山の父」として後に語られるウェストンも英国山岳会の会員であり、彼を訪ねた小島烏水が、ウェストンの勧めで1905年に山岳会(後の日本山岳会)を立ち上げた流れに繋がるからです。つまり、英国山岳会から日本山岳会に流れる「思想の系譜」がある。ここを問題視していかなければ、一向に、日本人と自然の関係をまともに論じることはできません。

そして、この英国山岳会の最大の批判者だったのが、ラスキン(1819-1900)です。
1865年、設立7年目の山岳会に講演を依頼されたラスキンは、この機会を使い、山を登山として娯楽・消費の場に置き換える山岳会を痛烈に批判。会員を「強欲な俗物」として罵り、糾弾したのです。

ラスキンは鋭利な批評家の眼と、画家ウィリアム・ターナーをはじめとする芸術家のパトロンとしての感性から、登山は登山家が快楽を感じ、自惚れることを目的にした、植民地主義的な感性に源流を持っていることを見抜いていました。
つまり、植民地化によって征服対象となる人々を未開・劣等と卑下し、自らを救世主・進歩・光の存在として位置付けることに快楽を得た大航海時代以来の西欧人の系譜が、単に対象を人間から自然にすり替えたに過ぎないということです。

そこでラスキンは、会員を前にして、「登山は聖なるものへの冒涜・征服欲の表れだ」として一蹴します。
ラスキン自身はロマン主義者ではありませんが、その精神を継承した人物です。彼自身も山に神が鎮座するとまでは考えませんでしたが、聖なる場所としての畏怖を抱えていました。

一方で、ラスキンの批判に猛反発したのが、ポスト・ロマン主義の文脈で反動的に登場した合理主義・不可知論の大家で、三代目・英国山岳会長だったスティーブンです。

スティーブン(1832-1904)は、神ではなく、人間の理性を重んじる西欧的な啓蒙思想の洗礼を受けており、聖職を捨てて信仰を放棄した人物です。いわば、ワーズワースやラスキンが語るような、自然の奥底には神の崇高な精神が浸透しているという感覚や、山を神の手によって建造された聖堂と見做す態度は共有していません。

スティーブンはロマン主義を参照し、ワーズワース的な「自然と一体化する神秘」を退けながら、「自然がいかに人間を善良にするか」という道徳部分だけを抽出し、倫理の側面だけを引き継ぎます。
そして主著『ヨーロッパの遊歩場(The Playground of Europe)』(1871年)において、山を「遊歩場(playground)」と定義し、山から宗教的な神聖さ、信仰などを抜き去ってしまったのです。

このスティーブンを崇めていたのが、「日本登山の父」ウェストンです。彼は1918年に主著を刊行したのですが、その題名は『極東の遊歩場(The Playground of the Far East)』。
つまり、スティーブンの『ヨーロッパの遊歩場(The Playground of Europe)』を経由して、ウェストンは『極東の遊歩場(The Playground of the Far East)』として、日本の山岳をプレイグラウンドとして再定義したのです。
そこには、日本・日本人の歴史文脈に対する理解も敬意もありません。

ウェストンを神格化した小島烏水(1873-1948)は、盲目的に英国式思想を粗雑に継承してしまい、結果的に日本の山を崩壊させる起点に立ってしまいます。
ただ同時に、「日本の登山」を単純化できないのは、小島の源流には、こうした欧化主義に対抗する思想家の存在があったからです。
それが、1894年に刊行された志賀重昂の『日本風景論』です。

地理学者、評論家、教育者で衆議院議員にもなった志賀は、政治家、大学教授、官僚などの欧化主義一辺倒の態度に警鐘を鳴らし、日本を見つめ直すことから始めることを提唱しました。その考え方は、明治21年(1888年)に彼自身が立ち上げた政教社の機関誌『日本人』第二号の一文に表れています。

「宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態を守り続けろとは言わない。ただし西欧文明は、咀嚼し消化してから取り入れるべきだ」

つまり、西欧文明のすべてを拒否することも違うが、受容先の日本に目を向けないまま、西欧文明を盲目的に礼賛し、何の考えもなしに実装することは間違っているという批判です。

本来、何かを受容する際、真っ先に見つめるべきは自分自身であり、その後、どの外来要素を、どのように自分に合った形で受容するかを考える。これが全うな方法ですが、明治期の実権を握った欧化主義者は、日本の理解なきまま、文脈を無視してとにかく西欧を崇め、次々と実装していきました。
この問題が日本の登山の源流に配備されているのですが、なぜか問題視されることはありません。そしてこれは、登山だけではなく、今も日本社会に蔓延する病理です。

驚くべきことに、今もアングロサクソン圏では、この感性を露骨に引きずっています。先日、オーストラリアの若きビアンカ・アドラーがエベレストに登頂した際も、多くの英語圏報道機関は、その成果をエベレストを「征服した(conquered)」と表現しました。
「conqured(征服する)」という語は、語源的に「勝利」という観念に根ざしており、「登山者」と「山」の戦い、あるいは競争を連想させる用語です。

事実、アドラーは「エベレストの海から山頂までの最速登頂記録を樹立した。インドを出発してからわずか50日で登頂を完了した」ことを評価されたのであり、本人含めて、未だ忌々しい価値観を抜け出せていません。
それは12歳でモンブランに登頂し、2年後にはアコンカグアにも挑戦して、最年少記録保持者の一人になった登山家として語られることも同様です。

これらは、本当に讃えられるべき「偉業」なのか?
なぜ、自然と競争し、征服しなければならないのか?

十代で自然を征服する快楽を覚えてしまい、自らの強欲のために他国の山岳を消費するビアンカ・アドラーと、十代で世界の本当の課題に向き合う覚悟を決め、自然破壊、気候変動、産業社会、ガザ戦争の批判者として、今も最前線で行動し続けるグレタ・トゥーンベリ。
この落差と奥行きの違いは、一体どこから生み出されているのでしょうか。

この系譜を見つめた時、ウェストンが日本に実装した登山は、本来、どう考えても日本の世界観に合いません。つまり、登山を否定するのではなく、失ったものとの対話を深めていき、日本なりの答えを見つけること。

今、静かな問いが私たちに浮上しています。
この問いに真摯に向き合い、次を見据えていけるか。
あるいは、再び無視して、強欲の限りを尽くすのか。

米国、欧州、英国が揺らいだ今、もう私たちが西洋に従い続ける必要はないはずです。

人間が自然を征服できるなら、その逆も然り。
人類の喉元には、既に鋭利な刃が突きつけられているのかもしれません。

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■ 3. 使命を果たすための精密栄養学

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日本や世界の現状を憂い、少しでも未来を変えたいと思う現代人にとって、本当に必要なのは最低限の健康知識です。
どれだけ志が高くても、不調になると心身共に疲弊し、道半ばで諦めてしまうもの。
そこで本コーナーでは、使命を全うするために、最低限の健康知識を最新の精密栄養学の視点で提起していきます。

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先週に引き続き、今回はビタミンDの活用に関わる遺伝子変異を見ていきます。

前回もお伝えした通り、精密栄養学では、血中のビタミンD濃度を60-80ng/mLに保つことが理想とされていますが、この理想値には一つ問題があります。
そもそも現状、日本人の多くは20-30ng/mL程度にとどまっており、以前お伝えした乳がん予防には十分な数値とは言えません。その原因は複合的ですが、実は日本人はビタミンDの取り込み、活性化が難しい遺伝子構造を元々持っている可能性が高いのです。

その鍵を握るのが、VDR(ビタミンD受容体)という遺伝子です。
この遺伝子に変異がある場合、せっかく取り入れてもビタミンDの働きが弱まってしまい、体内で有効活用できなくなるため、血中濃度が下がりやすくなる特徴があります。
結果、ビタミンDの吸収や利用を効率的に行うことができず、健康リスクが他の人と比べて高まってしまうのです。

遺伝子自体を変えることはできませんが、それを理解した上で対策を考え、日常生活で効率的にビタミンDを摂取する方法を設計することが重要となります。
ここで重要となる要素が、「日光浴」「食事」「サプリメント」の3つです。

まず、日光浴を行うことで、1日に必要なビタミンDの大半を生成することができます。なぜなら、ビタミンDの主な供給源は太陽光であり、日光による体内のビタミンD生成は全体の70~80%を占めているからです。
1日に30分程度、顔や腕、足などを露出して日光を浴びるだけで、1日に必要なビタミンDの大部分を生成し、補うことが可能です。

また、食事からビタミンDを摂取することも可能ですが、十分な量のビタミンDを食事から摂取することは極めて難しいため、日光浴やサプリメントを併用して補う必要があります。

例えば、サプリメントであれば、体内で活性型に変換されるビタミンD3を1日あたり4,000IU程度摂取することで、乳がん予防に十分な血中濃度を保つことができます。

そして、ビタミンDの効果を最大限に発揮するためには、「相棒」が不可欠です。それが、マグネシウムです。

精密栄養学では、マグネシウムを1日350~500mg摂取することが理想とされます。体内でマグネシウムが不足していると、ビタミンDの効果も十分に発揮されないため、2つのパートナーの性格を理解した上で、ビタミンDとマグネシウムを重点的に摂取することで、乳がん予防効果をより強化することができます。
しかし、現代日本人は、マグネシウムもビタミンDも足りていません。

これまでお伝えしてきたように、がん細胞の増殖抑制、アポトーシス促進、がんの転移防止など、がん抑制に対して強い効果を持っているビタミンDですが、日本人、特に女性においては、効率的な摂取が現代社会ではかなり難しい状況に陥っています。

少しの日差しでも日傘を差し、日焼け止めを塗り、太陽光を浴びないことを良しとする風潮が広がったからですが、適切な日光浴は現代人に急増するがん、特に女性にとっては乳がんの予防対策に最も効果的となります。

お金のかからない自然の恵みを、日常に取り込む。
こうした積み重ねの集積が、いざという時が来たとき、運命を分けることになるのでしょう。

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■ 4. KINEMA 2400

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江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。

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石原裕次郎、吉永小百合、渡哲也、和泉雅子、芦川いづみ、松原智恵子、小林旭。
1960年代の日本映画において、独自の存在感を放った日活。

日活が生み出す映画の雰囲気は、大手他社の作品とは大きく異なり、独特の空気が立ちのぼっているのを強く感じます。一体、日活が持つ言葉にしがたい魅力の正体は、何なのでしょうか。

日活自体は、1912年創立という日本最古の映画会社の一つであり、戦前から第一線で活躍してきた老舗です。ところが第二次世界大戦に突入する直前の1939年に「映画法」が制定され、映画製作体制が再構築されていきます。その流れのなかで、1942年に製作会社が松竹・東宝・大映の三社に統合されました。
このうち大映は、新興キネマ・大都映画・日活(製作部門)などの合同によって誕生したのですが、これは各社が自発的に再編したシステムではなく、国家が上から産業を統制したという、特異な時代背景を抱えています。

この時、産業全体が少数の会社へ集約され、人材までもが統制されるという構造の前史が生まれます。
日活は製作部門を大映に吸収され、以後は配給・興行を担う会社として存続していくことになります。

1945年の敗戦によって国家統制からは解放されたものの、各社は今度はGHQによる強い表現の圧力、検閲の枠内で民主主義映画を作り続けることを強要されます。
この検閲は1950年に勃発した隣国・朝鮮戦争勃発と共に、米国の監視の目が半島に向いた瞬間に崩壊。しかも戦場にならなかった日本は、戦争特需によって経済を潤しました。

占領下に置かれていた時代を終え、表現の自由の回復と、好景気による娯楽需要の拡大。この二つが重なったことで、日本の映画産業は大復興を遂げ、黄金時代へと突入していきます。ここから産業として急成長した映画界では、なんと観客動員が1958年に約11億人という頂点に達するまでになります。

この黄金時代は、年間製作本数も観客動員数も膨大でしたが、そうした時勢の中で「スター」が各社最大の資産として扱われます。そして各社が何よりも恐れたのは、この会社の資産が自由に移動し、引き抜き競争が起きることでした。
そこで1953年9月、主要五社(松竹・東宝・大映・新東宝・東映)が結んだのが「五社協定」です。

五社協定とは、専属人材の引き抜き防止を目的とする申し合わせですが、直接の引き金となったのが、長らく製作を中断していた日活が、翌1954年に製作を再開しようとしたことでした。
製作部門を手放してから十年以上経っていたため、戦後の日活は実質的には新規参入者です。当時の日活は、配給網や劇場はあっても、肝心のスターも監督も抱えておらず、自前の映画を作れない状態にあったのです。

つまり、製作を再開するなら、既存各社から引き抜くしかない。そのシステムを乱す不穏な動きを察知した五社が、それを封じるために「互いの専属俳優・監督・技術者を勝手に貸し借りしない、引き抜かない、他社を離れた者を一定期間使わない」という協定を結んだのです。
もう一つ興味深いのは、協定では、専属スターのテレビ出演を禁じる取り決めも付随していたことです。五社協定は、当時台頭してきたテレビに対する防壁でもあったのです。

この五社協定に始まる強固なシステムは、形を変えながら今日の芸能界にも影を落としているように見えます。所属事務所による強い管理、そして秩序を乱した者は「干される」構図の、遠い淵源をここに見ることができるでしょう。

ですが、同じ時期に太平洋を越えた先では、激動の転換が起きていました。
映画の本場ハリウッドでは、1948年のパラマウント判決により、独占禁止の観点からスタジオシステムが解体へ向かっていたのです。米国が反トラスト法でスタジオ支配を崩し、独立プロの世界を切り開こうとしたまさにその時に、日本は逆に協定を固め、スタジオ支配を強化した。日本の専属制度が世界的に見ても際立って硬直的だった背景には、こうした事情がありました。

しかし、この五社協定は職業選択の自由を侵すものでした。特に俳優たちは、「自分が出る映画を選べない」「一切の管理権が専属会社に委ねられる」状況を嫌い、独立の機運が生まれます。
その象徴的な一歩が、1954年、当代屈指の人気女優であった岸惠子・有馬稲子・久我美子の三人が結成した「にんじんくらぶ」でした。

ただ、五社協定の縛りは極めて強く、独立プロは主役級スターと配給ルートの確保に苦しみながら、試行錯誤を重ねていきます。ですが、この1950年代における協定と、それに抗う人々のせめぎ合いこそが、やがて1960年代の独立プロ映画黄金時代へと結びついていくのです。

こうした過酷な状況の中、日活が1960年代の映画界に独自の存在感で台頭した背景には、一体何があったのか?
システムが強固になればなるほど、歪んだ隙間から生まれる「次の萌芽」は、未来を変えていきます。

今日のように、日本社会全体の相互監視システムが強固になればなるほど、どこかに必ず歪みが生まれ、その隙間から次世代の萌芽が登場するのが歴史の教えです。
今、五社協定下の日活の動きが、私たちにヒントを伝えていると思えてなりません。

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